本人の代わりに退院を喜んだのは草壁とすずめちゃんだった。
「ほんとに迎えに行かなくていいの?」
「いいよ」
こんなに短い通話でも、すずめちゃんの声が弾んでいるのがわかる。その背後では、草壁が普段の三割増しの勢いで委員に号令をかけるのが聞こえてきた。
「今日は哲さんのお手伝いするんだよ」
「そう。それが終わるころにはそっちに行けるよ、いっしょに帰ろう」
***
想定よりずっと早く着いた校舎からは、部活の準備のために生徒が出かけ始めていた。曇りがちで薄暗い昇降口に、ぱたぱたと軽い、聞き慣れた足音が響く。
「おかえり、キョーヤ!」
靴箱に差しかかったあたりで、すずめちゃんはスキップでもしているのかというほど跳ねるような足取りで飛んできた。いつものセーラーブレザーにポシェットを携えているあたり、こちらも手伝いとやらは早めに終わったらしい。
行儀のいいことに外して持っていたベレー帽が、走るのに合わせてふらふらと揺れた。
「ただいま」
自然と、そう返していた。返事としては何の変哲もない。けれど、こんなことを言う相手は今までいなかった。その機会すら。それを口にした瞬間の得も言われぬ安堵だって、知らない。
帰る場所に、すずめちゃんがいるのが当たり前になっている。
「退院なんでしょ、もうおうちにいられるんだよね」
「そうだよ」
「よかったぁ」
「……ありがとう」
こうして、手を伸ばせばその髪に触れられるのが、日常になっている。手触りのよさを確かめるように頭を撫でると、面映ゆそうな笑みがこぼれるのが。
よかった、と、そう感じる。今回のことで、帰りを待つのがこの子の方だったことが。おかえりを言ったのがこの子だったことが。
今日はいつも以上に、すずめちゃんが可愛かった。この日を心待ちにしてくれたことも、撫でられるのを気持ちよさそうに受け入れるのも、熱い頬も、可愛い。
「君は可愛いね」
すずめちゃんといると、思わぬことばが口をついて出てくる。当然意味を汲めるはずもなく首を傾げるところに「何でもないよ」とごまかし、さらに話をそらす。
「いい子で待ってたみたいだね。草壁から聞いたよ」
「うん。お手伝いがんばったの」
「そう」
家に戻ったら、見舞いで余った菓子を多めにあげてもいい。判定の甘さは気のせいではない。ぽかぽかと温かい体は、一気にはしゃぎすぎたせいだろうから。
「……」
「キョーヤ?」
呼びかけには応えず、指先で触れ直す。
――ここで不自然なほど赤い頬と、不自然なほどの元気さに気づかなければそのまま帰宅していただろう。
小さな手に握っていた帽子をこちらに引き取りながら、前髪を上げるように言う。
「こう?」
「うん。待ってて」
白い額に手をやると、すずめちゃんは「気持ちいい」と表情をとろけさせる。触れたところはまるで熱を持ったようで、大して冷えていたわけでもない手のひらに温度が滲んでくる。
決定的だった。
「……すずめちゃん。掴まって」
「え?」
ぽかんとして何も把握できていないのは逆に都合がよかった。無防備な体を片腕で抱き上げて、すずめちゃんの来た廊下を引き返す。
「あれ? あれ? 帰るんじゃないの?」
「後でね」
まるで、どころの話ではなかった。
すずめちゃんは明らかに発熱している。
***
「何だ何だ委員長サマ? 他人の介抱なんて」
「ベッド借りるよ」
揶揄することばにいちいち応えてやるつもりはなかった。一応はデスクで仕事をしていたらしいシャマルの前を素通りし、きょとんとしているすずめちゃんをシーツの上に降ろす。
「ぼく眠たくないよ?」
「寝て」
「えぇ……」
肩を押しやって仰向けにさせたところに、白衣を脱ぎながら近寄ってくるシャマルは何を察したのか体温計を持ってきた。対して、すずめちゃんは上履きを脱いで床に降ろしている。
「相変わらずだなぁおい……お、噂の座敷童か?」
「何、それ」
「ほらよ、使い方はわかるな? まぁ測りながら大人しくしててくれ」
「はぁい……」
シャマルがすずめちゃんを覗き込もうとするのを追い払う。それにしても聞き慣れない呼称だった。思わず聞き返すと、無精髭に手をやりながら窓の外を眺め始める。
「お前がこの子を学校に置き始めてから根も葉もない噂が流れてんだよ。風紀委員に馬車馬のごとくこき使われてる一年だとか、最近封印が解けた座敷童だとかな」
「くだらない」
「まぁ中坊の想像力だし大目に見てやれって。ところでお前ほんとに中学生なのか?」
「さぁね」
意外なことに「男は診ない」と公言しているこの校医がすずめちゃんを怪しむことはない。聞けば「チビ助だし」と何とも端的な答えが返ってきた。
「チビは急に熱も出すし風邪も引く。面倒ったらないぜ」
彼がぼやくのと、体温計がアラームを鳴らすのが重なった。振り返ると、すずめちゃんは何やら嬉しそうに表示を眺めている。
「すごい、三八三って書いてあるよ!」
――意味をわかっていないらしい。
「さんびゃくぅ?」
「三八度三分。だめだね」
「あー、だめだな」
「三八だとだめなの?」
「体温が高すぎる。君は熱があるんだよ」
「……熱があるのは、よくないこと?」
「おーそうだそうだ。お前さんはふらふらになって倒れる寸前だったんだぞ」
しゅんと無言になるのをいいことに半分カーテンを閉めると、ベッドは廊下側から見えなくなる。さほどサイズは大きくはないが、すずめちゃんが横たわるには十分だった。
先ほどまであんなにも賑やかだったのが、まるで電源が落ちたも同然の変わりようだ。シャマルはやれやれと息をつき、保健室を出ていく。
「しばらくここにいるんだろ? ちょいと野暮用だ」
「勝手に使うよ」
「へいへい」
彼がどこで何をしようが文句はない。そもそもの勤務態度に難がある男だ、大した処置を期待してここに来たわけではなかった。しかしすずめちゃんのそれは、まさしく病人そのものに近づいていく。
「動ける?」
「平気……」
帽子を傍らに引っかける、それだけのことが酷く難儀そうだ。体が軋む音が聞こえそうなほどぎこちない。
「何だか、変。肌がぞわぞわする」
事実を突きつけられ、自覚した矢先に症状が表に出始めたらしい。服が擦れるのも苦痛になるほど敏感になるというのは風邪の初期症状だと考えていい。多少強引だがブレザーを剥ぎ三つ編みを解いてやると、すずめちゃんは小さく身震いした。
「寒くて、熱くて、ぐるぐるしてきた……」
「寝て、起きたら治る。こういうのは」
頷いて、すずめちゃんはタオルケットじみた薄さの上掛けにくるまった。伏し目がちで、うつむき気味。違和感の理由はすぐにわかる。全くこちらを見ないことだった。まるで後ろめたい何かがあるように。
ことばが減ったのは、不調が原因ではないように思う。すずめちゃんは、伝えたいことはたとえ何十個あろうがきちんと伝えようとするだろう。面倒がって何かと端的に済ませる傾向のある誰かとは大違いだ。
病院とは真逆になる。こちらがパイプ椅子に落ち着く形になり、曖昧な意識のまま黙りこくっているのを眺めた。何かを切り出そうとするかのように、上掛けを握る指先が上下しては硬直する。
――すずめちゃんが頑なに離れたがらなかった理由が目の前にあった。
「ごめんなさい」
どうしようもなく気が気でなくなるからだ。
「何か謝ることがあったの」
問い詰めているつもりはなく、本当に心当たりがない。それでも、熱のせいかそうではないのか、すずめちゃんは苦しそうに声を弱らせた。
「キョーヤ、やっと元気になったのに。早くおうちで休みたいのに」
「……君がいない家に帰っても休めない」
罪悪感か、自己嫌悪か、その両方か。ぎゅっと目を閉じる様が、固く開かない貝殻を思わせる。病は気からとは、逆もまた成立するらしい。考えなくてもいいことを掘り下げて、苦しくなってしまうほど。
――それもこれも、酷な熱さのせいだ。
「行っちゃうの?」
「どこにも行かない」
デスクの傍ら、縮こまるように小さな冷蔵庫を勝手に開けた。冷凍室にあれこれと隠し持っているのは予想がついていたから。蓋にスプーンが貼りつけられたカップアイスは、生乳が何とかと宣伝が主張するバニラ味。
「君が僕のことで弱気になってるのはわかったよ。でも、全部話すのはこれを食べてからにしなよ」
差し出されたそれに、すずめちゃんの反応が遅れるのは当然だった。脈絡がなさすぎる展開は、そうやって頭を空にする狙いもある。
驚いて、悪いことは忘れてしまえばいい。多少力技でも、すずめちゃんが熱に浮かされて悲しみ続けるよりは遥かにマシだ。
スプーンで差し出したひと口を前に、ぽつりとこぼれるのは呆気にとられたことば。
「……そういえば、ぼくお腹空いてたの。朝ごはんの後から何も食べられなくて」
「これなら、きっと大丈夫だよ」
「うん。いただきます」
シャマルのものを拝借したことは黙っておく。赤い舌がスプーンの先を受け入れるのを見届けて、やっと安心できた。
「ん。おいしい」
――この笑顔がようやく見られたから。
***
「戻ったぞー……って、寝てるのか」
「今起きたよ、やかましい」
「オレ一応先生枠なんだが?」
いつの間にかすずめちゃんの隣で眠り込んでいたらしい。体を起こすと、いくらか穏やかになった呼吸が微かに聞こえる。額にかかった前髪を払ってやると、顔色も悪くないのがわかった。
肩の力が抜けた気がした。やはり辛そうにしているのを見るのはごめんだ。いつもの元気な姿に、早く会いたい。
そう息をつき振り返ると、かさかさとコンビニの袋を広げながらシャマルは冷蔵庫を開けていた。
「よっと……そうだ、チビ助の様子はどうだ?」
「ちゃんと眠った。だいぶ楽になったように見えるよ」
「そーかい。もうすぐ日も暮れるからキリのいいとこで帰れよ」
しゃがみ込んで冷凍室を覗いているが、ひとつ中身が減っているのは気づいていないらしい。そうして買ってきたものを片づけていた彼は、ふと片手に何かを掲げてみせた。
「これ持ってけよ。何でもいいから食わせてやんねーとな」
「……今あなたのことを見直したよ。ほんの少しだけ。三パーセントくらい」
「お、喧嘩か? 買うぞ?」
その手に握られたバニラアイスのパッケージから伝う一滴が、ぽたりと床に落ちた。
「お腹いっぱい……」
ふわふわと幸せそうな寝言が、それに重なる。
