部屋に行ってみれば案の定、まだすずめちゃんは起きていた。明かりを落としたまま、カーテンを開けてしとしとと降り続ける雨を眺めている。ベッドの上で頭から毛布を被った姿は大きな饅頭のよう。
「眠れないの」
「……眠たくなくなっちゃった」
後ろ手に扉を閉じる間、その目はあちこちに泳ぐ。珍しいことだ。覗き込むという表現がふさわしいほど、すずめちゃんは相手の目をよく見るから。
それにしても、短期間にずいぶん変わったものだと思う。表情が増え、話すことばも滑らかになった。大人しいのかと思いきややたらと行動的で、好奇心旺盛。本来のすずめちゃんはこちらなのだろう。
そしてその本人は今、らしくなく目をそらしている。先ほどのことが尾を引いているようだ。
キス、なんてことばを吹き込まれてくるとは思いもしなかった。もともと教えるつもりもなければ考えもしなかったこと。気に食わないのは、それが第三者の手によって起こった事故だということだった。すずめちゃんに初めてのことを教えるのは僕だ、なんて思い上がりをしているわけではないが。
――あの瞬間の、唇に伝ったあの感覚を未だに覚えている。白からほんのり色づいて、温かくて、何より柔らかかった頬。ぽかんとした顔も、みるみる真っ赤になるのも……なぜキスをしたいと思ったのかも、はっきり思い出せる。
もっと知りたいと思ったからだ。楽しんで、真剣になって、怯えて。色んな表情を見せ始めたすずめちゃんのことを。
「暗いままだよ。怖くないのかい」
「……キョーヤがいるから平気」
話をそらして隣に腰かけると、ようやく肩の力を抜く。
「でも、雷が出たらキョーヤの部屋に逃げちゃおうって思ってたの」
「ふぅん。雨より雷の方が怖いんだ」
「だってものすごい音がするでしょ」
「音が、苦手なの」
「学校が割れちゃうかもって、もしぼくに当たったらすごく痛いだろうなって、そのくらい大きかったもん……」
声が弱々しく揺れる。確かに、あの日の落雷は近かった。初体験があれでは苦手意識として刻まれるには十分だろう。身震いして、すずめちゃんは少しだけ寄り添ってきた。毛布を目深に引き下げて顔を隠しつつ。
知らないことは目隠しに似ている。ますます饅頭に近づくすずめちゃんを見ているとそんな比喩が降って湧いた。雷を知らないから、いろんな想像が野放図に働いてしまう。この子の頭の中では、ただの自然現象は意思を持ったモンスター同然だった。
だから、すずめちゃんは何でも知りたがる。怖がらずに、ちゃんと前を見て歩けるように、たくさんのことを学んでいる――きっと本人はそこまで行動理念を言語化してはいないだろうけれど。
「あの程度じゃ何も壊れないよ」
「ほんと?」
「本当。君にだって、何も痛いことは起こらない」
「……ほんと?」
「これも本当。僕のところに来るんでしょ」
力が入った、小さな握り拳に手を重ねる。少し高い体温は、ずっと毛布に包まっていたせいもあるのかもしれない。余計に子どもらしさが募る、しっとりとした肌が手のひらに心地いい。
「キョーヤは怖くないの?」
「うん。僕に怖いものなんてない」
「キョーヤ、強いね。僕も強くなりたいな」
急いでならなくていい、とは口にはしない。これからもっと、楽しいことと同じくらい怖いことを知らなくてはいけないのだから。わざわざそんな現実をわからせる気は起きない。
その代わりに、目隠し同然の毛布をめくった。少し潤んだ目が、今度こそまっすぐに見上げてくる。驚いて、軽く見開いたそれがゆっくり瞬くのが、暗がりの中でも睫毛の先まではっきりわかる。
「キョーヤ」
この声で何度も呼ばれた名前。
今、かちりとピースがはまった気がした。
――キスをした理由。もっとすずめちゃんを知りたいと思った訳。そもそもこうして様子を見に行こうとしたきっかけ。それは実際には単純で、けれど今まで手にしたことのない感情のせいだった。
「僕は君が可愛い」
その背に両腕を回すと、呆れるほど小柄だというのがまざまざと思い知らされる。ことばの意味がわかっても受け取りあぐねているのか、きょとんとする以外すずめちゃんは無反応だ。それでも、先ほどから逃げ回っていた視線はやはりそらされない。それが嬉しかった。
「やっと僕のこと見たね」
「……うん」
「キス、そんなに恥ずかしかったの」
「そんなに恥ずかしかったもん。何でかはわかんないけど」
困ってしょげかえる眉がある。赤いままの頬がある。指を解いて、握り返してくる手がある。それら全てが見えなくなっても、抱きしめたい。そう思ったときには体が動いていた。力加減なんてわかるはずがないから、なるべくゆったり包むようにして。
「キョーヤ?」
胸の中で身じろいで、慌てて……すぐに大人しくなるのすら、可愛い。
「……ぼくは、特別?」
「……わからない。ただ、こうしたくなったんだよ」
「そっか」
答えにならない答えだと自覚はあったが、返ってくる声は明るく弾んでいた。背中に貼りつく体温は、きっとすずめちゃんの手だろう。
「嬉しいな。キョーヤにこうしてもらうの好き」
「……そう」
「名前呼んでくれるのと同じくらい好きだよ……」
とろりと輪郭をなくしていくことば。そこには、もう恐怖の色は残っていなかった。まるで秘密の話でもするようにささやかな告白は、それ以上続かない。
「次は、ぼくにもさせてね」
「何を……」
聞き返す間もなく、くたりと脱力する体を受け止めるのは容易い。直後耳に届いたのは、小さな呼吸だった。
――完全に、寝ている。今までぴんぴんしていたのに忍び寄る眠気にあっさり敗北するあたり、やはりまだ幼い子どもだ。
「言い逃げなんて、いい度胸だね。僕に何するつもりだったの」
憎まれ口は、微かな雨音に混ざって消えていくだけ。対して、すずめちゃんが向けたのは好意だった。
この一週間で、何度「好き」を受け取っただろう。今までそのことばをことば通りに解釈するばかりで、飲み込むことはなかった。あんなにも包み隠さない好意は感じたことがないし、扱ったこともなかったから。
けれど今は違う。すずめちゃんの口から、その声で聞きたい。何度でも。
「……可愛いって、こういうことなのかもね」
もこもことして柔らかい衣ごと、ベッドに横たえる。どれだけ一気に陥落したのか、一向に起きる気配はない。このまま嵐にさえならなければ朝まで安泰だろう。
もはや自室に戻る気もない。多少狭いがすずめちゃんの隣に横たわり、ただ寝顔を眺めた。もともとのあどけなさに拍車のかかる、何の影も感じない穏やかさ。気持ち良さそうな呼吸は、同時にこちらの眠気も誘う。
「おやすみ」
言い直したそれに、返ってくることばはない。その事実に満足して、目を閉じた。塞いだ視界のまま手を伸ばして、捲れた毛布を直してやる間に、意識に幕が降りていく。
夢も見ないほど、深く眠れる予感がした。
