肺が痛む。
洋館らしきものの廊下を当てもなく走っている。逃げるために。どの窓もワインレッドの厚いカーテンでぴたりと蓋をされて外の様子は伺い知れない。ただひとつ、空気を伝って飛び込んでくる低い雷鳴のほかには。
辛うじて明かりが落ちるビロードの上をたどり続けてどれほど時間が経ったかもわからない。どうしてこんなに苦しいことをしなければいけないのかも。ただ、足を止めたら最後だという暗い予感がわたしを焦らせた。背後から追うものは何もないのに。
背後には何も。
「みどり」
――不意に曲がり角の影から投げかけられたのはわたしの名前。気を取られて一瞬覗き込もうとしてしまった油断を、白く冷たい手に掴まれてあっさりと突かれた。驚きに呼吸が乱れるのをその手は逃さない。
「早く」
強引に腕を引かれて放り捨てられたのは小部屋の中。お姫さまのそれのような天蓋のかかるベッド、大きな鏡、そしてやっぱり開かれない窓。見覚えも心当たりも脈絡もない光景、そこから無理矢理視線を引き剥がして振り返った先に立っていたのはひとり。
よく知った顔が穏やかに笑っている。
助けを呼ぼうとした声は喉に滞って。
後ろ手に、ただひとつの扉が閉ざされた。
***
応接室の奥に据えられた机についているいつもの姿をこうして目の前にしてようやく安心して、膝から力が抜けるかと思った。対するキョーヤはもちろん何が何だかわからなくて少し目を見開くばかり。
立ち上がるとその指から手慰みらしい、殻を二度破った入れ子人形が離れていった。
「おいで」
そう言われるより先に体は動いている。好き勝手喚きたいのを飲み込んでキョーヤのそばに回り込み、伸ばされる手を握り締めた。
温かい。
決してあの手と同じなんかじゃない。
「キョーヤ、わたし……追いかけられて、また、だめで……」
「それは夢の話かい」
何度も頷く。キョーヤはすぐわかってくれる。というのも、これが初めてではないからだった。一週間前は同じ洋館をひたすら逃げ回るだけの悪夢。とんでもなく夢見が悪かったと弱音を吐くのを聞いてくれたのだから。
「僕のところに来てもいいって言ってるのに」
うつむくのを撫でてくれるところに、呆れた声が降ってくる。
「君は怖がりだからいろんな夢に疲れるんだ。けど僕といっしょなら平気なんでしょ」
「でも、でも毎日お泊りだなんて迷惑だもん」
赤ちゃんがぐずるのとそう変わらない割り切れなさをキョーヤは許してくれる。こうして両腕で抱き締めてもらうと、温かくて、優しくて、どんな場所よりも安全だと確信してしまえるほど。うっかりキョーヤの家でお昼寝した日、夢も見ないほどぐっすり眠れたのがそれに気づくきっかけだった。目を覚まして初めて視界に飛び込むのがキョーヤの胸の中だったのがどれほど嬉しかったか。
大きな手はわたしを守ってくれる。例えばキョーヤの姿をした誰かに追われる夢からも。
「その頑固さが折れるまでは待っててあげるよ」
片腕でわたしの背を抱いたまま、後ろ手にカーテンが閉じられた。曇り空が淡い布に遮られる。涙が滲んでいたらしい目元を拭っていく指を、キョーヤはふと自分の舌に乗せた。わたしはそれをぼんやりと眺める。
穏やかに笑う唇。
「早く諦めて、僕だけのものになればいいんだ」
三つめの殻から出てきた入れ子人形の影を、雷鳴が揺らした。
ランダム単語ガチャ No.2170「奇妙」
