罠になんて負けません

「指定の薬品全てを服用後、12時間の待機」

 唯一のドアにかけられたプレートにはそれだけが書かれている。寄りかかった白い壁から眺めていた文字は数分前から確実にぼんやりと滲み始め、今ではただの図形と誤認しそうなほど溶け果てていた。

 そして、ここから対角となる位置でやっと立ち上がるみどりはそれこそ目を溶かしそうなほどに泣き続けて。

「キョーヤごめんね、わたし何十年かかっても仇を取るからね……」
「勝手に殺さないでくれる」

 何を勘違いしているのか、ということばはここでは無意味だ。彼女がこの異常事態の全容を把握するのを妨害しているのは僕だから。

 窓から応接室に投げ込まれた閃光弾からみどりを庇ってともに倒れ込み、顔を上げたときにはふたりしてこの部屋に閉じ込められていた。壁を破ろうとしてもびくともせず、手分けして探したが出口も鍵も見当たらず、残ったのは意図して無視していた設備だけ。

 真っ白いシーツに覆われた大きなベッド。そこへ放られた手錠とナイフ。その横に並ぶ十の小瓶は毒々しいピンク色をしている。言われずとも指定の薬とはこれのことだと察しがついた。

 ほかに手がかりはない。

「君はもう一度床を調べてみて。僕は天井を」

 そうやってみどりの視線をそらした隙に小瓶全ての中身を飲み下した。八本目あたりでひっくり返った悲鳴とともに勘づかれ「だめだよきっと猛毒だよ」などと制止されたが中断などするはずもなく。

 毒、という表現はあながち間違ってはいないだろう。密室、ベッド、およそ人体に優しいとは思えない色の瓶、この組み合わせから連想するものは媚薬とか催淫剤とか呼ばれるものだ。現に頭が回らない。喉が渇く。みどりの声が欲しくなる。急激に体内を回り始めた熱。みどりに触れたい。

 証拠が揃いすぎている。

「キョーヤ、顔色悪い……」

 みどりがおろおろとこちらへ歩み寄ろうとするのをよそに手錠を掴み、自分の手首とベッドの装飾を繋ぐ。

「え、え? 何で!?」
「来ないで」

 何もかも理解の外で展開する事態にみどりが比喩でなく腰を抜かすのと同じくしてこちらも壁に寄りかかり、耐えきれず座り込んだ。回想終わり。

 ***

 風紀委員長にダメージを与える方法としてはこれ以上に効果的なものもない。得体のしれない薬をみどりに手渡すわけがなく全てを僕が飲み下すことは黒幕の想定の範疇に違いなかった。箍が外れた僕に、みどりを襲わせること自体が僕への攻撃になる。彼女を逃さないよう脅すための手錠とナイフだ。そんなものがなくても逃げ場などないというのに。

「これは攻撃衝動を引き出す薬らしい」

 みどりへは当たらずも遠からずな作り話で、だから近寄るなと強引に追い払った。軟禁状態にされた時点で不安げにしていたところに僕の裏切りがあれば絶対に抵抗などできない。悲鳴も上げられないほど怖がって泣くに決まっている。

 けれど逆に、容易に想像がつくその光景が熱に流されそうになる理性を辛うじて保った。涙を拭いながら脱出を試みるみどりを見ていただけで胸が苦しくなるのだ、僕の手で泣かせるなどあってはいけないことだと。

「ねぇキョーヤ! これお水! 飲みかけでごめんね!」
「君は何を聞いてたの」

 ――それをぶち壊しにするみどりに反応するのもひと苦労だ。何かを見ているのも億劫になり閉じていた瞼を開ければ、テディベアのようなキャラクターのカバーがかけられたペットボトルが差し出されていた。僕のすぐ正面に膝をつくみどりは泣き顔を押さえ込み、似合わない硬い笑顔を浮かべて。そんなものを見たら怒りなど向けられない。

「全部聞いてた。でもあんまり辛そうだから」
「……片腕でも僕は君より強いよ。首を折られたいの」
「キョーヤはしないよ。わたしの何百倍も強いんだもん、薬なんかに負けない」

 冗談で済まされないことを笑って乗り越えることが正しいとは断言できないし判断すらできない。心にもないことばで脅したところで、涙が拭いきれない目も赤いままの頬も僕には際限なく欲しくなる魅惑的なごちそうであることに変わりないのだから。

 何もかもまとめて僕のものにしたい。それだけが思考を飲み込もうとした。

「大丈夫。だからキョーヤが少しでも楽になるようにさせて、どうしたらいい?」

 ――白い喉元をめがけて伸ばしかけた片手は、わざとらしく明るい声が止めてくれた。強がりだとすぐにわかる震えた音。

 こんな状態の僕にのこのこ近寄ってきた報いを受けさせたい。何の躊躇いもなく両腕で抱きしめたい。

 どちらが相応しいかは明白だった。

「……違う。百万倍強いんだ」

 投げ出していた脚をみどりの腰に絡ませて思い切り引き寄せた。素っ頓狂な叫びとともに胸へ倒れ込んでくる彼女はいい意味でいつも通りでほんの少しだけ安心する。
 
「君の言うとおりだよ。非合法ドラッグは初めてじゃない。二度勝ってる」
「えっ何その戦績は……」
「今日で三勝だ。だから協力して」

 胸元でもぞもぞと姿勢を直そうとする背を自由な腕で抱きしめた。面白いほど跳ねる肩は、しかしそれ以上暴れることなく大人しくなる。僕の望みをわかっていて、逃げ出そうと一瞬は考えて、そして止めたのだと簡単に読めるわかりやすさがおかしくて、可愛い。

「これ……これ、キョーヤがいい体勢なの?」
「そうだよ。みどりがこうして近くにいてくれたら気持ちが落ち着く」

 我ながら大した嘘をついたものだ。落ち着くどころか目の前の首筋に歯を立ててやりたい衝動が膨らんでいく。繋がれた手に自ら爪を立ててそれをやり過ごし、みどりの髪に頬を擦り寄せた。柔らかな感触、ほのかな甘い香り。何もかも奪うものではなくて守り通すものだ。それだけを何度も繰り返して、髪を撫でて、乱れた精神を深呼吸とともに凪がせる。

「どれくらい経った?」
「さっきケータイ見たら、四時間くらいだった」
「そう。それなら、残りの時間はこうして待って」

 こくこくと素直に頷く丸い頭が、黙って胸にもたれかかってくる。速いね、と微かにつぶやかれるのは心音のことだろう。おずおずと回された手が背骨をなぞるようにして触れ、弱々しく抱き着いた。どんな顔をしているのか窺い知れなくとも、赤くなっていく耳が物語っている。

「キョーヤ」
「うん」
「大丈夫だよ」
「誰に言ってるの」

 安堵のため息ともついこぼれたとも取れる笑い声が腹に響いてくすぐられるようだ。荒れ狂っていた獰猛な波をほんの少しずつ鎮めていく軽やかな、ミントを思わせるみどりの声。

 こんなことになった腹いせは黒幕を潰すことに全て傾けることにした。今は、みどりを潰さないように抱えることだけ考える。

 泣き虫で怖がりの彼女が「よかった」と笑えるようになるまで。