ソルビトール

 冷蔵庫の中、飲料をまとめるポケットに収まるものはだいたい決まっている。麦茶、緑茶、ミネラルウォーター、アップルジュース。赤々としたりんごのパッケージを鷲掴みにするたびに、ここにも彼女を思わせる場所がさり気なく増えたことを実感する。特段好みでもない甘いそれはみどりのおやつ代わりにといつでも置いてあった。

 今ごろこちらに向かっている彼女のかばんにはクッキーと本が丁寧にしまわれているのだろう。どちらも僕のためのもの。読むものがなくなったとぼやいたところに「二冊くらい貸そうか」と提案してくれたのは記憶に新しい。

 ――ずいぶんと平和なものだと思う。

 みどりといる時間はいつも日なたの温度がする。僕が手にするにはあまりにも不釣り合いな柔らかさがみどりには満ちていた。今までにあんなにも弱くて小さいものを懐に入れたことなどない。

 あの子が笑って「優しい」と形容してくれる雲雀恭弥は、皮を剥げば何てことはない。見つけた宝ものの扱い方がわからずに恐る恐る触れているだけだ。大切、好き、離したくない、その気持ちのままに動けば最後、酷く傷つけてしまうのだと。
 
 ***
 
「ほんとにありがとう、あったかーい」

 マグカップをテーブルに戻し、みどりはほっと息をついた。思いつきでアップルジュースを温めて渡したのがよほど気に入ったのか随分とペースが早い。

「そんなにいいの」
「うん。何だか体の芯からぽかぽかする」

 ソファーへ隣り合わせに座ってそれぞれの読書をする間、寄りかかる互いの体温が腕に伝う。

「土曜、晴れるんだって。ね、空いてたらお出かけしようよ」
「わかった。迎えに行こうか」

 ことば少なに、そして他愛のない話をぽつぽつと。その合間、目線を文字に落としているふりをしてふとみどりを横目に捉える。僕の返事に嬉しそうに目を細めながら頁を繰るのは細い指。触ると温かくて滑らかなのはよく知っている。今はセーターの袖に隠れた手首も。

 それなら、脚は。素肌の肩は? 視線でみどりの輪郭をたどるほどに知らないことが引きずられてくる。手を繋いでも、抱き締めても、キスでもわからないこと。唇に唇で触れたとき、その次の感覚。舌の温度。歯の小ささ。それから――。

 不意に、こつり、とみどりの頭が傾いだ。

「あ、ごめん」

 慌てた表情がこちらに向けられるのに数拍遅れて返す。

 見抜かれたのだと、誤解した。そうではないとわかってほんの微かに安堵して、だからこそまざまざと思い知らされた。大切なみどりを守るはずのこの手は真逆のことにも使えることを。まだ知らないみどりを押さえつけてこじ開けて覗き込むことなど造作もない。

 それに気づかぬまま、みどりは目をとろりとさせてゆっくりと瞬く。その様子の意味がすぐに理解できるほどにはつき合いは長い。

「寝たらいいのに」
「だめだめ、せっかくキョーヤのとこに遊びに来たんだもん」
「その顔でよく言える」
「……じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだよ、すぐ起こしてね、五分くらいで」
「考えておくよ」

 ――こうして再びもたれかかってくることの意味も僕にはわかる。みどりは僕に甘えていて同時に信頼もしている。気持ちよさそうな寝顔、緩く閉じて開かない瞼、その両方が証明だった。

 普段なら頬を指先でくすぐって満足し、そうして何十分でも眠らせていた。しかし今は自分でも理解の及ばない衝動が喉元にせり上がっている。触れたい。裏切りたい。

 みどりをそっと横たえると唇が蛍光灯の下でいっとき潤むのがわかった。ソファーから降りて膝をつき、間近でその瑞々しい色を見つめる。血色のいい甘そうな曲線。甘いに違いなかった。嬉しそうに飲んでいたのはアップルジュースだから。

「みどり」

 ――声をかけたのは無意識だった。起きていてほしかったのかもしれない。みどりの知らないところでこんなことをするのは嫌だと、何とも身勝手な倫理観のために。

 ややあって、綺麗な目が薄く開かれる。睫毛が震えるのがわかるほど近くで。

「……キョーヤ……?」

 その声ごと確かめるように、唇を重ねた。

 ことばはない。

 温かくて、甘くて、柔らかくて――このまま離したくないと、しばらくそのままでいた。ずっと見ていたい。不意に襲い来る覚醒に追いつけないままの瞳も、徐々に赤くなる首筋も。

「可愛い」

 舌先でなぞると肩が跳ねる。起き上がろうとする腕を両手で軽く阻止し残る甘味を舐め取った。戸惑った響きはことばになれずに喉で滞り、泣き声よりも弱々しい。

「……可愛い、みどり」

 何度か淡く啄むと水音がする。僕の名前を呼ぼうとしてできない声が聞こえる。ようやく微睡みから浮かび上がる視線が合う。その全てが胸に刺さって疼いた。こんなものは知らない。どうすれば鎮まるのかすら。みどりに触れているのに渇く。足りない。何かが、欲しくなる。

 どこからか湧く熱に浮かされるまま、開いて動けない唇へ、その中へ舌先を伝わせた。熱くて柔らかいそれと軽く重なり、重なっただけではもの足りなくて、もっと奥へと進めた。

 ――子犬の甘噛みにも劣る微かな抵抗が突き立てられるまで。

「キョーヤ」

 綿を崩さぬようにと、それほどためらいがちに僕の頬へみどりの指先が伸べられる。目を覚ますのは僕の方だ。いつしか痛みではなく痺れのために彼女から体を離していた。仰向けのままこちらを追うみどりの目はその間際悲しそうに潤み――何を勘違いしたのかが手に取るようにわかる。

「……ごめんね、噛んだりして。びっくりしちゃって……痛かった?」
「……痛くない。君はどうなの」

 そのことばは僕が言うべきものだ。唐突で軽率な行動だと今ならわかる。あれでは済まず拳のひとつでも飛んでくるべき状況で、なのにみどりは手の甲で唇を覆うのみで。元々ほのかに染まっていた頬をさらに赤くして。

「痛くない……でも、変。どきどきしてくらくらする」

 力の抜けた手がふわふわとさまよい僕を求めた。子どもが親に甘えて抱き上げられるのを待つ仕草に応えないはずもなく、頬を寄せるようにして首へみどりの腕が回るのを誘う。緊張に掠れたことばが耳をくすぐるように。

「キョーヤと、き……キスすると、いつも嬉しいの。でもね、えっと、ああいうキスがあんなに気持ちいいなんて、知らなくて」
「気持ちいい……」
「キョーヤは、違った?」

 わからない、と、みどりの腕に抱かれながら首を振ってみせる。しかし心当たりがないでもない。形も掴めない何かに突き動かされるまま先に先にと理性を置き去りにして肉体だけが動いていた。あれ以上に押し進んでいたらみどりを怖がらせていたはずだ。

「……驚かせた。もう……」

 もう、しない。そう言おうとして思いとどまる。

 優しく触れる、ただそれだけの日々には二度と戻れないとどこかで悟って。

「……もう一度、したい?」
「……でも、多分いけないことだよ」

 肯定を通り越した否定はまるで説得力がなかった。覗き込んだ表情は彼女の言う「気持ちいい」もののために可愛らしくとろけて、初めての感覚に戸惑って混乱して、けれどまた欲しいとも思っている。

 甘さに惑った僕と同じように。

「喉、渇いたね」

 再起不能も同然のみどりを横たえて部屋の扉を振り返った。きっと互いに同じことを考えているのだろうと薄々は察する。

 ぼんやりとした視線がほとんど空になったマグカップに注がれるのを見てしまえば、余計に。