跨がる

 

 ちょーじが明晰夢を見たらしい。語られるのは荒唐無稽で、けれどそこになじんでいく主人公の話。

「でね、三毛猫についてったら空き地に出たんだ。土管が置いてあるとこ! そこに青い猫がいてね……」
「いいねぇ、自分で好きに動ける夢かぁ」
「すっごく楽しかったよ! また見るにはどうすればいいかなー」
「枕の下にメモを挟むとかぁ? 見たい夢の」

 下校のケイちゃんを送った帰り道は、ひとり分の声が減る。ふと足元へ視線を落とすと、曇りの夕方はオレたちの影をいつもより薄く引き伸ばしていた。ときおり飛び跳ねるちょーじのものと、真後ろに倒れて様子がわかりづらい自分のもの。

 さっきまでは、オレたちの間にもうひとつ小さな影があった。

「じゃあ、亀ちゃんはミケちゃんの写真だね! 持ってる?」
「やらないよぉ、挟まない……潰しちゃかわいそうでしょ」

 なんだかこの男の朗らかな笑みには、ときおり自分の思惑のすべてが筒抜けている心地がする。それはともあれ、あの子の写真を現像したものはまだ手にしたことはない。しかし、どちらかというとものすごく手に入れたい。一日のうちのあと数時間でも長くいっしょにいられたらと望むからこそ。そんな願いを、明晰夢なら叶えてくれるかもしれない。

 ***

 これは罰だ。欲深く高望みしたことへの。

 腹にじわじわとかけられる重みに、とうとう認めざるを得なくなる。なにせこうしてオレ自身が潰されかけているのだから。

「条くん」

 とろりとホットケーキからこぼれるシロップを思わせる声。

 これは罰であり、夢だ。なにせこんな真夜中にこの子がこの部屋にいるはずがないのだから。

 目の前で、というより上で、ケイちゃんは微笑む。丸っこい襟やゆったりとした袖はパジャマのものだろうか。これだってありえない。

 プライベートそのものの彼女がオレにのしかかっているなんて。

 暗がりで目を開け、部屋の壁に据えられた時計を見るところまでは平静でいられた。そのまま寝直せばよかったのに――と、後悔しても後の祭り。

 いっしょにいたいと願いはしたが、こんな形は後ろめたさがすぎる。

「来ちゃった。ね、わたしと遊ぼうよ?」

 ケイちゃんは微かに前のめりになる。オレを跨ぎきれずに布団から浮いていた丸い膝の、薄い皮膚の向こうで滑らかな骨が動くのさえよく見える距離。よくよく観察してしまうと彼女のパジャマの下はショートパンツだった。真夏の格好は寒いはずなのに、舌なめずりでも始めかねない口調からはそんなことは読み取れない。だから夢なのか。

 晒されている太腿の白い曲線は見た目にも柔らかく、そして枷より強固にオレを挟み込んでいた。絶対に跳ねのけられず逃げられないという確信という点で。

「……今日はもう遅いよぉ。ケイちゃんといっしょに寝てたいなぁ、オレは」
「えーっ、だめ?」

 苦し紛れの言い訳も効果なし。肩を落としてしまう彼女に申し訳ないのは事実だが、早く離れてくれないとどうにかなりそうなのも深刻な問題だった。自分の心拍数が異様な変化をしていくのがありありとわかる。胸で脈打つリズムが頭やつま先にまで届いて。

 触れ合っているところの重みも、体温も、確かな質量があった。例えばもし万が一天地がひっくり返ってケイちゃんを腹に乗せることが将来あったとしたら、こんな感触なのだろうというほどに。

 耐えがたいことだった。

 こんなことはとてつもなく業の深い、あの子に顔向けできないシチュエーションのような気がするから。

「条くんかわいい。真っ赤だ」

 するりと、温かな指がオレの頬を包む。そう言うケイちゃんこそ耳が赤い。優位に立っているのに恥ずかしがっているかのよう。もう少しすれば薄いパジャマ越しに、上がっていく温度が伝ってくるのかもしれない。それは、よくないことだ。

「……ケイちゃん、降りてぇ……」

 自分の声だとはとても信じられない、弱々しい懇願ばかりが細く喉からこぼれていく。

 重みなどいくらでも受け止められる自信はある。だがそれ以外のすべてがだめだった。彼女の内腿が、指先が、香りが、視線がオレをふんわりと捕らえていく。

 苦痛か? そんなことはない。

 これだけでは我慢できずに、何もかもを求めてしまいそうな自分を抑えることに気力を持っていかれそうになる。それがいちばんの難敵だった。

「やだよ。こんな条くん初めてなんだもん、何しちゃおっかな」

 そんなことは知る由もなくケイちゃんは無慈悲に目を細める。耳元を笑い声が、指がくすぐっていくのをなんとかしたくて、反射的に両手で押さえていた。

「ケイちゃん……っ」

 ちょうどよくそこに位置していた、なだらかな線の腰を両側から掴むように。

「ひゃ、ん……」

 想定外の反撃だったのか小さな悲鳴が上がる。子猫の鳴き声のように微かで可愛い声が。

 自分がここから劣勢になることなど全く考えていない、甘い子の。

 ――限界だった。

「……あー……」

 限界なのに体は動く。自分の指が、確実にケイちゃんの輪郭にふんわりと埋まっていき。

 そういえばこれは現実ではないのだと、半ば投げやりのような低いため息が出てくる。魔が差すとはこういうことだと、半ば諦めながら上体を腹筋の要領で起こす。

 こんなに簡単なことだった。

 自分よりずっと小さくて軽くて、弱い女の子を捕まえるのは。

「……ケイちゃん、今日はなんだか悪い子だねぇ」

 流れが変わったのをさすがに理解したらしい、丸い目を上から覗き込む。

「どうしてやろうかなぁ」

 そこに映っていたのは人相の悪い男だった。

 ***

 今朝確認したら、枕の下には当然何もなかった。だったらなおのことだ。

 猛省に引っ張られて表情まで落ち込むのを密かな深呼吸でやり過ごした。目の前ではケイちゃんがちょーじにお菓子の箱を渡している。恒例になりつつある、オリの屋上でのおやつにあんな夢のなごりはふさわしくない。今は暖かな午後三時だ。

 だから、この手に残る温度も柔らかさも忘れなければ。今だけは。

 都合のいい夢で都合よく、ケイちゃんによからぬことをしでかそうとしたことは。

 ほんのりと濃い明るさのなか、ふたりが差し出してくれるクッキーを受け取る自分がいつもの顔をできているかどうか。フェンスの映り込みで確かめるそのタイミングで、ケイちゃんは「そういえば」と鞄を探り始める。

「鹿沼くんが送ってくれてたの、現像できたよ。ふたりにあげるね」

 クリアファイルをめくる、うつむいた視線。

 ――あのケイちゃんも、オレを見下ろしていた。いたずらっぽく、愛おしげに。

 ありえないあの構図に胸が高鳴っていたのは事実で、それが問題だった。つまりオレだってどこかあの状況を楽しんでいたことになるから。

 気まずくて、気まずすぎてふたりとの会話も半分上の空。だから今さら気づいた。

 ケイちゃんが「現像」と言ったこと。

「えっ、それってぇ」
「この間ぬまちゃんが撮った写真! 家に飾りたいってこの前言ってたでしょ」

 間髪入れないちょーじに持たされたのはL判。

 数人でファミレスに寄ったときに撮った、もとい撮られていた写真。

 振り返りざまスマホを向けられて驚いているオレと、ちゃんとポーズを取っている可愛い笑顔のケイちゃん。

 ひとつひとつを把握して飲み込んで。悟る。地獄への道は何とやらだ。

「……オレが暴走したら止めてくれる?」
「亀ちゃん?」
「条くん?」

 こんなにいい写真、よからぬことに使ってしまいそうになる。枕の下に挟むとか。

 

ランダム単語ガチャ No.1278「跨がる」