車両にはふたりきりの空間ができあがっていた。穏やかな揺れとともに海辺の駅を離れていく間、僕たちは同じものを見つめている。あれほど目立つものはなかったから。
尖塔のふもと、大勢の人間の歓声を受けているのだろう。花の広場に歩み出る白い服のふたり。朝の風が彼らの間を吹き抜け、あちこちから花弁を散らした。
「綺麗」
隣でみどりが夢中で笑みを浮かべるのを、窓から視線を外して眺めた。ここには花も風もない。あるのは空調の振動と照明の光だった。
先ほどまで意識を向けていたのは、確かに幸福な光景だったのだろう。この先二度と、会うことのない。
そして日常の延長線上に過ぎないはずのこの時間は、僕にとって何よりの祝福なのかもしれなかった。線路を降りても、鐘の音が止んでも、こうして繋いだ手の先にみどりがいる。
「明日も、今日みたいに晴れるね」
振り向く笑顔の頬にこうして触れられるのは、数ある中でいちばん……に近い、得がたい時間だった。
「知ってる」
「遊ぼうね。今度はキョーヤのお家に行きたいなぁ」
僕たちはライスシャワーの意味はおろか誓いの意義も知らない。語ることができるのは、これから先の永遠などではなく明日の約束。
「迎えに行く。八時に待ってて」
「うん。早起きして待ってる」
「僕に起こされたいなら眠っててもいいけど」
並走していたトラックが木々の群がる曲がり角へ消えていく。それと比べてここはまるで揺りかごだ。どうしようかな、そうおどけるみどりは見るからにとろりとした目をし始めている。それにあんな、角張った車の運転などしたことはないだろう。彼女はいろんなことをわからないし、できない。
今は。
「……いつか、この手は離れると思うかい」
ふと口を突いたのはその可能性を考えたこともない、ここにいる何もかもにとっての愚問だった。
返ってきたのはとろけそうな微笑だけ。
「わたしたちはずっといっしょ」
甘えて肩にもたれられるのをそのままに、目を閉じる。きっとみどりも同じようにしているはずだった。恐らくは、夢を見るように幸せそうな表情で。
「そうだね。そうに決まってる」
「そうだよ。だから、やっぱり明日は起こしてもらおっと」
「大きな子ども」
「子どもでいいもん、キョーヤに起こしてもらうの好きなんだ……」
「……そうだね。僕もだ」
小さな手に揺り起こされる心地よさを知っている。二度寝をそそのかす温もりはみどりでしかありえない。肩から伝う体温が全身に巡るようにと深く息をついた。微かな海の残り香を舌の上に感じながら、意識が沈んでいくのを他人事めいて見守りながら。
――どこかで、鐘の音が鳴り響いた気がした。みどりが呼ぶ声の方がよほど気持ちよく目覚められる。近いうちに訪れるそのときを待ち望みながら、手の中にある温度をほんの少し握りしめた。
夢小説企画サイト「光に溺れていなくなる」様へ寄稿。(イメージソング企画/霜月はるか/ちいさなきみへ)
