かわいい

 ドライヤーを止めて、そうっと指を髪に差し入れて。何度か繰り返すのに飽きる素振りも見せない彼女からは「おしまい」のひとことがそろそろ訪れるはずだった。そういう当人の髪はすでに手入れが終わっている。数分前にドライヤーを当てて梳かしたのは僕だ。白い壁に囲まれた部屋を照らす橙がかったナツメ球の明かりを艷やかに返している。

 風呂上がりに互いの髪を乾かそうと特別に取り決めたわけではなかった。いつから始まったのか明確な境界などなく今ではその記憶があいまいなのはこれが毎日のことではないからだろう。彼女がこの家に遊びに来るのと同時に泊まることになる日だけの、何気ない習慣。

「君にこうしてもらうとちょうどよく眠くなる」

 時折は鼻歌交じりになる温かな時間は、椅子に腰かけた姿勢のまま次第に緩い眠気を纏っていく。適温が吹きつける髪を柔らかく優しい指が何度も撫でていくのが毎度のことだとしてもそれは変わらなかった。そんな僕を見て彼女が微笑むのも。

「キョーヤがうとうとしてるの見るの好きだよ。可愛いもん」

 自分こそはっきりと覚醒しているとはとても言えないとろりとした目を彼女は細めた。子猫もお菓子も僕ですら可愛いと形容するそこにはすべてひとくくりにする乱暴さなどかけらもない。ただ好きなものに対し感じるまま口にしているだけだ。

 きっとそれは僕が彼女に常々抱いている感情と同じ色をしているのだろう。鏡越しの瞬きがゆったりとするのも、手が止まりがちになるのも、見ているだけで胸の内が凪いでいく。

 その静かだった変化は寝室でいっしょに横になるころには形を変えていた。笑っておやすみを言った彼女があっさりと眠りに落ちるのを隣で眺めていると、ともすれば焦りと履き違えそうになる微かな痺れがやってくる。それは冷えた指先を湯船に沈めた途端に感じる淡い痛みにも似た温もり。

「そうだね」

 何分も遅れた相づちを聞く者はいない。頬にかかる髪を指先で払い、未だ熱を残す幸せそうな色を確かめて――改めて僕も口にできる。それは、先ほどまで音もなく僕を翻弄しようとしていた気持ちすべてをたったひとことで表せてしまえる。

 互いの体温が満ちる場所でどうしようもなく目を閉じながら。

「僕は君がかわいい」

 それは、今まで何度も彼女に伝えてなお足りないことば。