近付きたい

 鞄から取り出される厚い本は僕が頼んだものだった。彼女が好きだと言って聞かせてくれる遠い昔の童話を自分でも追ってみたくなったと伝えたときの喜びようは記憶に新しい。

「これ一冊だけで有名どころはほとんど読めるよ。なでしことか、いばら姫」
「ありがとう。いつ返そうか」
「ゆっくりでいいよ」

 小さな手には重みのあるだろうそれを受け取った。少し日に焼けた頁が、どれだけの間大切に読まれてきたのかを物語る。

 ――しかしその瞬間に僕たちの間を通り抜けたのは古い紙の香りではなかった。例えるなら小麦の、香ばしいそれ。少し顔を近づけても変わりはなく、芳香の元はこの本で間違いない。

「……君の家の本棚はとてもいい香りがする」

 座布団に収まった彼女は何のことかときょとんとし――なぜかすぐ頬を赤くした。弾かれるように前のめりになり、畳に置いた鞄を検めるのは相当慌てているようで。

「違うの違うの、わたしそんなに家でたくさんお菓子食べてるわけじゃなくて」
「ふぅん。これはお菓子の香りなんだね」
「誘導尋問だぁ……」
「君が口を滑らせたんだ」

 むむと黙り込む可愛らしい頬がこれ以上膨らむ前に真相を白状するよう促す。「食いしん坊じゃないからね」の念押しとともに鞄から出てくるのは小さく透明な包みがふたつ。中にはカスタードのような色をしたクッキーが数枚収められていた。多めのチョコチップが甘みを連想させ、見た目にも食欲をそそる。

「今日のおみやげ。午前に作ったの」
「鞄の中で匂いが移ったんだね」
「ふたりで食べよ」

 にこりと笑って包みを開く指が、今朝は生地に触れていた。今はともかくその瞬間は香りを纏っていただろう。恐らくは服も、髪も。

 もっと近づいたらそのひとかけらでもわかるだろうか。

「おいで」

 彼女からしたら、僕が両腕を広げたのは唐突だったはずだ。それでも嬉しそうにして入ってきてくれる素直さが可愛い。背を包むように抱きしめると体温とともに、鞄に戻されたクッキーの香りが微かに届いた。

 甘くて、おいしそうな。

「どうしたの、いきなり」
「こうしたくなったんだよ」
「そっか」

 腕の中で大人しくする彼女は深く聞かない。ことばとは裏腹に僕の意図をわかっているのかもしれなかった。そのまま髪を撫でたくなるが、そうしたら最後止まらなくなるのはわかっているので止めておくことにする。

「さっそくいただこうか。その後でこれを読もう」

 もちろん、隣同士で。頁をめくるたびに、彼女が座布団で姿勢を整えるたびに、もっと味わいたくなるクッキーの香りを楽しめるはずだ。