メタモルフォーズ

 霧が降りるのに似た小雨の音に、いつの間にか目を覚ましていた。

 一瞬だけ自分がどこにいるのかを掴みあぐね、そうして温かいこの場所は鹿鳴館の一室だと思い出す。開いたカーテンの向こう側からはほの青い夜明けの色が差し、明かりを落とした室内での柔らかな光源になっている。

 少しだけ身をよじって、背後をうかがう。

 わたしを後ろから抱きしめていたキョーヤは、まだ眠っている。ゆったりとした呼吸は見逃しかけそうなほど微かに乱れ、安らかではないことが辛うじて読み取れた。

 この場所でのこの時間が、意外なほど音に満ちるようになっていたから。

 遠くを走っていくバイクの排気音、鳥のさえずり、葉擦れ。ただの環境音だからこそ不規則だ。中でも車のマフラーが唐突に立てる破裂音に似た低い衝撃は、寝起きのわたしには攻撃的に響く。それは意識が沈んでいるキョーヤにも同様だった。

 寄せる眉より先に、回される腕が強張る。眠りの間は感覚のコントロールを取りづらい。センチネルになって日が浅いなら、なおさら。

「まだ眠って。起きなくていいんだよ」

 なるべく刺激らしい刺激にならないように、キョーヤの耳を手のひらで覆った。完璧な防音なんてしてあげられなくてもどかしい、それでもこうせずにはいられない。声を落として、そっと。

「ここにいるよ。キョーヤ」

 今していることは、詳しいひとから見たらガイディングなのかもしれない。センチネルの苦痛を和らげるための手段。

 本当は、このことにガイディングだなんて大それた呼び方はいらない。好きだからそばにいて、大切だから抱きしめる。キョーヤが応えてくれる。それだけでよかった。

「……何にも、難しいことないよね」

 センチネルだとか、ガイドだとか。

 いつかのことばへの答えをそのまま口にする。

 変わったもののそばに、変わらないものがあると確信できていれば。

 隣り合って、手を繋いでいるなら。

「わたしはキョーヤが大事だから、こうするんだよ」

 車が遠ざかるのを感じながら、さらさらとして綺麗な髪を撫でる。

「……みどり」

 呼ばれるとは思わなかった名前に驚いて間近にある寝顔をさらに覗き込んでも、目が開かれることはなかった。

 それでも、わたしの頬へ頬を擦り寄せるようにして、穏やかな表情になったことだけわかって――それで十分だと思える。

「大丈夫。キョーヤはちゃんと息ができるよ……」

 ふと思い出した。キョーヤが癒されるのは、海の音とわたしの声。答えを求めるべきではない相手に話しかけ続けるのも悪い気がして、選んだのは結局歌だった。意識すればするほど細部を掴みあぐねていくそれは、きっとルーシー・モノストーンが作った歌。

 遠くから聞くと満ちて欠ける波になるメロディーは、誰が持ち込んだのだろう。

 考えながらただ見つめていた――その唇がほころび。

 わたしの背に触れていた大きな手が、優しく輪郭をなぞった。

 そこへ一直線に差す影は、外に停車している重機のもの。張り詰めた水面に投じる一石じみた場違いな巨体は、ここのほかにあとふたつ鎮座している。

 まるで卵の殻を破ったかのように明確に、この場所の特異性のほとんどが失われた。

 近いうち、鹿鳴館は取り壊される。

 ***

「センチネルが休める場所を壊しちゃうの?」
「並盛一帯で聴力に係る該当者は僕だけだ。それにあの場所が後天的なセンチネルを作り出していた可能性には代えられない」
「それなら、キョーヤのためにも鹿鳴館は残しておかなくちゃ」
「僕にはみどりがいればいい」

 そこで話はおしまいだった。真昼の屋上からは、複数のクレーンがじっとしているのがよく見える。明後日から足場の組み立てが始まれば立入禁止になり、二度と解かれないという。

「入るならこれが最後のチャンスになる」

 そう言って、キョーヤはわたしのことばを待った。

 こうして鹿鳴館での合宿は唐突に最終日を迎えることになった。と言っても、とくに目的はない。やることといえばいつもと同じだ。手がかりを探してあちこちを調べるのも明日からはなくなってしまうのだと思うと、少しは寂しい気もする。

「非公式にカセットテープが作られたのはなぜだと思う」

 今日の課題はこれ。

「ルーシー・モノストーンの大ファンが曲を広めたくて、レコードから作っちゃったのかも」

 この館に明確な答えがあるか、ないか。後者だとふたりともわかっている。ただ闇雲に動くのをキョーヤが嫌ったための課題だ。だから、わたしたちはまっすぐこの屋根裏部屋の放送室に来ることができた。窓を開けなければ夏の暑さで参ってしまいそうな場所。風の通り道ができた途端、蝉の声が容赦なく注いだ。

 熱気と音量にくらりとしたところを助けてくれたのはキョーヤの手。

「そうだね」

 部屋のほとんどを占める日陰に座り込み、もうすぐ撤去される機械たちを眺める。キョーヤは光が反射する金具に眩し気に目を細め、すぐに隣のわたしへ視線を移した。

「始まりはそうだったはずだ。テープからテープへルーシーは伝染する。けれど、まさかセンチネルも広げることになるとは誰も思わなかっただろうね」

「誰なんだろう。何なんだろうね。歌声を聞いたひとを、変えちゃうなんて」

 寄り添うと温かい。今は暑さに拍車をかけるだけだと離れようとすると、肩が引き寄せられた。

 キョーヤはわたしを見ている。ゆっくりと瞬きをしている。声も、ことばもなかった。

 その両腕の中に収められるまでの数秒間、何も。

 もしかするとキョーヤには聞こえていたのかもしれない。わたしが何を思ってどこへ行こうとしたのか。

 わたしには聞こえた。そんなことをする必要なんてないと、否定してくれる音が。

 微笑む唇を前髪に受け取った後も、その柔らかな音色は残り続けた。

「それにしても、ひとつ解決したらまたひとつか。謎が尽きないのは望むところだけど」
「どうして?」
「休みはまだ何日も残ってる」

 言われて、頭の中でカレンダーを思い起こしてみる。確かに八月の真ん中にも至っていない。

「それじゃあ、もっとキョーヤといっしょにいられるんだ」

 細められる目が、答える。

「行き先は決まってるよ。空けておいて」
「うん!」

 たくさん遊べるのが嬉しくて思いっきり抱きついた。ここでの探検だって楽しかったけれど、夏には定番というものがある。キョーヤとなら何十倍も輝くような行事がいくつもあると、頭を撫でてくれる指をくすぐったく感じながら指折り数えてみた。

「何するの? プール? 花火?」
「前日まで秘密。それにプールならここでもできる」

 床を、多分一階を示す指がどこのことを表しているのか。ふんわりとした予感は的中した。

 連れられたのは木造りの浴室。

「ここじゃ泳げないよー」
「泳がなくていい。涼めるでしょ」

 水を張ったところにふたりで素足を浸すと、不満も吹き飛ぶほどの気持ちよさが伝った。スカートのウエストを折り縁に腰かけ、軽くバタ足をするとちゃぷちゃぷと小気味いい波が砕ける。

「んー、気持ちいい」
「……風鈴のようだね」

 その様子を見ていたキョーヤは、ふっと目を閉じた。

 お腹まで深く――まるで初めて海を前にして空気までも呑み込み確かめるかのように静かな呼吸とともに。

「耳にするだけで気分が凪いでいく。君がいるから、もっと」

 こつん、と、くるぶしに硬いものが掠めるように触れた。見ればキョーヤがわざと自分の爪先を当ててからかっている。隠す気もない悪戯な笑みが証明だ。

「もう」

 やりかえそうとして、かわされて。ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせながらの攻防は何の意味もなくて、くすぐったい笑いが止められなくなっていく。

 きっと本当の海辺でだって、わたしたちはこうして笑い合うのだろう。

「キョーヤ、何してるのー」
「うん、その声。君が楽しそうに笑うのが好きだよ」

 頬に数滴散った雫を人差し指が拭っていく。優しい仕草に気を取られている間に、キョーヤはわたしへ向き直っていた。

「可愛い。僕はいつでも聞いていたい」

 聞かせて――そのひとことを、続けて。

 少しだけ濡れた手が、わたしの指を掬った。

 深い色の瞳。

 それだけが、わたしの意識を捕まえて離さない。

「みどりの声がないと僕は」

 緩やかに繋ぐ手の上で、ことばは何にも遮られることはなかった。

 まっすぐに、わたしへと。

 ***

 数人の先生がいる職員室から出てきた長身と鉢合わせし、つい声が出てしまう。相手もわたしと同じかそれ以上に気まずい表情を隠せない。

 久しぶり、と伏し目がちに声をかけてきたのは、いつか図書室で会った先輩だった。

「この前は悪かった」

 深く頭を下げられ慌ててあいまいに返してしまう。悪意で起こったことではないとわかっているからこそ、かえってどう言ったらいいかわからなくなって。

「しばらくセンターに通うことにしたんだ。だいぶ安定してる……」

 いちばん高いところを通り過ぎた太陽の光はだんだんと橙がかってくる。短い影が落ちる方には彼の大きなスポーツバッグが陣取っていた。

 そのポケットから覗くのは黒いケーブルのイヤホン。途切れがちな会話がやけに居心地悪くて、同じ階段を目指して歩きながらとっさに指さしてみる。

「音楽好きなんですね。最近は何を聞いてるんですか?」
「あぁ、これか。六月ごろに従兄弟から勧められてからずっとな」

 無造作にケーブルが引っ張られ、小さなプレイヤーが出てきた。電源を落とされた無機質な画面がこちらを向いている。

 わたしが、映っていた。

「ロリータ℃っていう歌手だ。ここのところネットで広まってるらしい」
「へー、初めて聞きました」
「俺もそのときまで知らなかったよ。小さいライブハウスで歌ってるみたいだ。何とかって昔の歌手の歌をカバーしてるんだと」

 誰だったか、と悩む姿が少しずつ遠ざかっていく気がしたのは、わたしがいつの間にか立ち止まってしまったからだ。ひと呼吸の後に追いかけ、ある予感に跳ねた心音を整える。

 間に合わなかったけれど。

「ルーシー・モノストーンだ」