チューニング八三一

 金曜日、真昼のホームには数人がぱらぱらと立っているだけだった。先ほどの出来事の実感はすでに手を離れ、ふわふわとして現実味を失うわたしもそのうちのひとり。イヤホンをつけて日陰でじっとしている彼らと同じ電車に乗って、次に降りる駅でモノレールに乗り換える。

 わたしたちが目指すのは終点。

 そこには海が見える町がある。

 ***

 触れた唇が耳元から離れていく。

 長い腕はわたしを後ろからすっぽりと包んで柔らかく、けれど確実に捕まえて。

「みどり」

 何度も確かめるように呼ばれる名前は温かく耳元へ降り注いだ。

「ちゃんと戻ってきたね」

 ――ルーシー・モノストーンの再来。ロリータ℃。ここから起こり得ること。伝えなければいけないことは山ほどあった。そしてそれは全て、すでに遥か彼方へ吹き飛んでしまっている。

 応接室に戻った直後のわたしを迎えたのはキョーヤの追及だった。

「彼はわきまえてるらしい。君が僕のものだって心底思い知ったのか」
「キョーヤ」
「君も」

 そうつぶやく表情は見えない。

 こんな語り口をしているけれど、きっとわたしと先輩の会話が内容まではっきりと聞こえていたのだろう。そうでなければあの日のように助けに来てくれたはずで。

「みどりも、そうだ。もうあの男といたいだなんて考えないよね」
「そんなの最初からないよ。意地悪言わないで」

 ソファーに腰かけたキョーヤに抱き寄せられて早数分。開かれていた両脚の間に収まってしまったが最後、抜け出せる道は万に一つもない。穏やかな拘束は心地よくても、その実腕ごとホールドされているから捕縛されているも同然だった。もがけばその分、頑なになる場所。

「……見えなくても効果はあるみたいだ」

 お腹の上をたどる指。ブラウスとインナー越しにでもわかる、あの痕があるところ。軽く爪を立てられてどきりとしたのは、怪我ではなくて色を刻み込まれるのかと感じたから。一生消えないと思わせるような深く、赤い色。

 ひとりじめするために。

「彼に触れられた?」

 僕にはわからない、この点は不便だといっそ無感情めいて告げられるのは譲歩だった。キョーヤは安堵と同時に苛立っている。それをわたしではないところにぶつけて。

 密やかなため息がわたしの襟元に降りた。

「ううん、何もされてない……」
「気に食わないな」

 ――硬いもの。

 首から肩にかけての決して丈夫ではない皮膚に突き立てられる何かがある。

「君を奪おうとするもの全てが疎ましいよ」

 そう遠くない日に消えてしまうとわかる浅い、けれど確実に穿たれるのは印だった。

 鋭い歯で、精いっぱいのブレーキをかけた噛み痕。

「や、やだやだ、何で噛むの、噛んじゃやだ……」
「痛むの」

 問いに問いで返されて、言外に「続ける」と宣告されたようなものだ。キョーヤは右へ、左へと不規則にわたしの首元へ甘噛みを止めない。予測も覚悟もままならない混乱は恥ずかしさと混同されていく。ときおり舌先がいたわるように伝う濡れた音すら拍車をかけて。

 痕が残るたびに、体が震えてしまうのを止められない。

「君ならがんばれるよね。誰もがひと目でわかるように」

 ふっと、呼吸がある。

「……いや。みどりが僕のものだって確かめたい。この先ずっと僕だけのみどりで、僕だけにこんなことをされると」
「キョーヤ……」

 そうっと耳たぶをたどる唇が、笑みをかたどることだけが唯一わかったことだった。今わたしの後ろでキョーヤはどんな顔で、どんな目でわたしに触れているのか。

 わからないことは、不安だ。

 それはきっと、キョーヤが感じたのと同じ。

「君は困ると僕の名前ばかり呼ぶ」

 またしても意地悪を口にする、その隙を突いて体ごと振り返った。しっかりとした両腕の中から見上げる先には、少しだけ驚いた表情のキョーヤがいる。いつもより幼く見える瞬きが可愛くて、安心して。

「……よかった。キョーヤ怒ってない」
「そんなことを考えてたのかい」
「ちょっとだけ」
「……首を食いちぎるとでも」

 今度は鎖骨に押し当てられて、けれど感じたのはくすぐったさだった。抱き寄せられる温度も拗ねた声色もわたしだけのもの。そんな事実が。

 元からそのはずなのに足りない。

 わたしも、言ってしまっていいのかもしれない。言質を取って、そうして周りの誰も彼もに向けて堂々と。

「わたしにも、させて」

 キョーヤをひとりじめしたいのだと。

 かくしてそれは受け入れられる。

「君から? 僕に何するつもり」

 楽しげに見上げる上目遣いをもっと近くで見つめていたくて、両手でキョーヤの頬を包んだ。わたしだけに注がれる視線。わたしの声だけ聞いている耳。全部が愛おしいけれど。

「これからもキョーヤがたくさんしてくれること」

 優しく微笑む唇へキスを返した。今までもらった分の、嬉しい気持ちを込めて。

 そして、目の前の大好きなひとはわたしと同じくらいに貪欲だった。

「……気に食わないな。それで終わりなの」
「もっとしていいの?」
「回数のことじゃないよ。僕が言いたいのは」

 背中に触れていた両手が、わたしと同じようにする。

「みどりがまだ知らないようなことを」

 教えるから。

 そう告げられたのはここにいるわたしにすらかろうじて拾えるほどの小さな囁きだった。

 触れた唇、その後にわたしをたどる舌先。

 知らないこと?

 それは何、と聞くこともできなかった。

 こんなキスにはまだ慣れないから。

 ***

「大江七緒は初めから帰りたかったんじゃないかな?」

 この遠征はわたしの仮説から始まった。

「どうして」
「海辺で暮らしてたから、寂しくないようにルーシーのテープを持ち込んだのかなって。曲が海の音に似てる……想像だけどね」
「それなら、本人に確かめようか」

 キョーヤはカセットテープと、いつか書いた合宿の申請用紙を取り出して書き換え――そうして、わたしたちは数泊の予定で並盛から離れた。今も彼があの町に住んでいるか、そもそも何か詳しいことを知っているかどうか、全くわからないまま。

「それとも、ルーシー・モノストーンは関係ないのかもしれない。並盛では聞こえない波音を聞きたくて焦がれてセンチネルになった……」

 思い出していた互いのことばは、ホームを出て行った電車にかき消される。そこへキョーヤが戻ってきた。私服のわたしとは対照的に、いつもの制服姿。

「あの電車、何かあったの」
「小さい女の子が乗ったよ。つけてたヘッドホンがかっこよくって」

 へぇ、と相づちを打つキョーヤの背後をイヤホンをつけているスーツ姿の男のひとが歩いていった。真っ黒なコードに金色の金具がついた、高級そうなイヤホンをしている。

 見れば、ホームにいるほぼ全員がそうだった。みんなして何かを聞いている。友だち同士らしいふたり組の女性も、ひとつずつイヤホンを着けて、楽しそうに笑いあいながら。

「何だか、ふたりっきりみたい」
「僕には都合がいいことだ」
「わたしも、そうかも」

 寄り添って手を繋げるから。わたしだけの事情でつい浮かんでしまう笑顔を呑み込んで、それをごまかそうとホームを改めて見渡した。

 あのポケットには小さなラジオが入っているのかもしれない。

 もしかしたら、カセットプレーヤーかもしれない。

 そうして、聞いているのは流行りのロリータ℃だったり――その原点だったり、するかもしれない。

 目の前に広がる景色ひとつとっても、わからないことだらけだ。センチネルのことも。ついでにわたしには宿題の数式すらわからない。

 でも、わからないことは少なくとも苦しいことではない。そうではなくなった。その理由は隣で小さくあくびをしている。

「眠たい?」
「少しね」
「降りる駅までちょっとあるから、中で寝ちゃおうよ」
「そうしようか。君も」

 キョーヤが頷くのと同時に跳ねた軽い金属音がある。後ろの売店の中を片づけていた店員のおばあさんが、窓口に置いたラジカセのスイッチを入れる音だった。

 そうして小気味いいBGMとともにオープニングが流れ始める。昔の洋楽を流すラジオ番組だという。

「STRANGE NEW WORLD」

 ――そのメロディーを最後まで聞くことはできなかった。わたしたちが乗る電車がゆっくりと、その分長いレールの摩擦音を大きく響かせながら入ってくる。

「十一時すぎか」
「エアコン効いてるー、入ろ入ろ」

 行ったこともない場所に、そこへの道行きにキョーヤがいることにすっかり浮かれてしまう。それでも、心地いい揺れに眠気を誘われるのだろう。そうしたらキョーヤに寄りかかってみたい。そのころにはわたしが寄りかかられているかもしれないけれど。

「みどり。ひとりで進まないで」

 繋いだ手をキョーヤが微かに握る。

 優しい目で、わたしだけを見ながら。

「うん。いっしょにね」

 冷気よりもその声を気持ちよく感じながら、車両に乗り込んだ。わたしたちの後ろで未だラジオは続いている。

 掠れた音響が作り出す海の音に送られ電車は動き出した。

 次にふたりが耳にするのは、砂浜に波が寄せるメロディーに違いない。 そう思いながら目を閉じた。

 淡い闇の向こうで同じように眠る呼吸を感じて。