ガイディングがどれだけ続いたのか、時間の感覚はなかった。熱くて、怖くて、悲しくて、互いにひとりで苦しくて――けれど、キョーヤがキスしてくれるのが嬉しいから少しだけ平気。そればかりを考えて。

 目を開けるとそこは暗い室内だった。キョーヤが見上げていた天井を、今はわたしがベッドに仰向けになって見つめている。四角の枠がはめられたそこを眺めてはいても、大した意味はない。ちょうど視線がそこに向かっただけ。

 起こす体を疲れと、それを塗り潰すほどの後悔が鈍らせる。春の朝のような小さな寒気に少しだけ震えた体は、何も見苦しいところはなく綺麗に整ったブラウスとスカートが覆っていた。

 そうしてくれたはずのキョーヤはここにいない。

「どこ……?」

 わたしがあんまり意気地なしだから呆れて出て行ってしまったのかもしれない。何はともあれ、もともといた部屋に戻って眠っているのならそれでよかった。

 ――よくない。キョーヤは弱虫が嫌いだ。

 清々しいほど静かな夜だった。それならと、気分のいいときの癖をなぞって適当なメロディーを口ずさもうとして上滑りして。意識してやるものでもないのだから当たり前だ。行き場を失う旋律はその形を夜闇に溶かしてしまう。

「……置いてかないでよぉ……」

 わたしがひとりではいられないことに気づいてくれたのはキョーヤなのに。お門違いの文句は涙声になって床に落ちた。

 わたしは、キョーヤがゾーンに落ちる感覚を共有した。ただそれだけだ。本当にその虚ろと向き合ってねじ伏せなければいけないのはキョーヤで、わたしではない。

 丸ごとは代わってあげられない。

 それが悔しかった。

「キョーヤ……」

 まだ熱を持っているかのようなお腹が、キョーヤがつい先ほどまでここにいたのを確信させてくれる。痛いのかくすぐったいのかわからない不思議な感覚をどうにかしたくて指でなぞって、結局ぞわぞわとするだけ。浮かんだ涙を手の甲で拭うと、ぼやけた視界に見慣れたものが混ざっているのに気づいた。

 ここに持ってきていたノートだ。どうするでもなく手に取って、何度もそうしたようにぱらぱらとめくる。

 キョーヤの名前も、ここに並ぶのだろうか。

 左のページに雲雀恭弥と。

 それなら、右は?

「玖珂みどり」

 その名前が並ぶことが、あるのだろうか。

 そんな資格はない気がする。

「……寂しいよ……」

 何かが、変だった。体の奥、深いところがばらばらに壊れて小さくなったものが溢れるように、涙が断続的に伝い落ちる。

 頭では、寂しいことなど何もないと理解できていた。キョーヤは鹿鳴館からは出ていくことなどしない。ここにわたしを本当にひとりきりにする気などさらさらない。この部屋から出てあの背中を探せば、名前を呼べばすぐに来てくれる。また隣でいっしょに眠ってくれるとわかっている。

「……帰りたい」

 どこへ。キョーヤのいるところならどこだって帰る場所だ。今のわたしに、その勇気がないだけ。ならばいっそここで眠ってしまおうと改めて背後を見渡すと、さっきは流し見たのみの火かき棒が再び存在を示した。暗い室内で、黒い姿がなお際立つ。

 手探りで照明をつけるとかなりの長さがあることに気づいた。わたしの家にはないけれど映画で見たことがある。天井に向かって使うものだ。この部屋だけ、他の個室と作りが違う理由はこれだったらしい。

 そこそこの重さにブレる棒の先を、天井の枠に引っかける。やはりそれは屋根裏へのはしごを下ろすための道具だった。箱を開けるように開いた板から、スライド式に収納されたはしごが金切り声を上げて滑り降りてくる。

 真っ黒な隠し部屋は、その先でぽっかりと口を開けてわたしを見つめていた。

 真夜中の、あんなところ。行きたいなどと普段なら思わなかった。今は平静ではいられない。床に棒を横たえて迷うことなくはしごに手をかけた。

 上り切った先に何を見つけても、わたしが本当にしてあげたいことには及ばないのだろうと諦めながら――引き止めてくれる手があるのだと確信しながら。

「みどり」

 この名前を、この声で、このタイミングで呼ばれるのは必然だったのかもしれない。早足にこの部屋へ踏み込んできたキョーヤは、片腕に暖色の塊を抱えている。それが畳んだ毛布だと気づいたときには、見上げる視線と目が合ってしまっていた。

「降りて」
「来ちゃだめ」

 制止したのは自分でも驚くほどの大声。二歩で足を止めたキョーヤの目はそれでも静かにわたしを見つめ続けた。薄明かりの中でなお綺麗な瞳が。

 そらしてしまいたいほど、眩しい。

「どうしてノートが破れてるのかわかったよ。ガイドはセンチネルを全部わかってあげられないから」
「……何を言ってるんだい。早く降りてきて」
「やだ……」

 今、首を振ったのはわたしだ。けれど、この館で同じようにした人間がいたことを脈絡もなく察する。

 ここにはセンチネルと同じように、ガイドの生徒も来ていたのだ。わたしたちのように、いちばん近くにいて、互いがいちばん大切で、だからこそ一分の隙もなくその苦しみを埋めてあげたくて。

 それができなかった、名前も知らないガイドがたくさん。わたしもそのひとりになってしまった。悔しさのあまり拒絶したくなる現実に立ち続けていたくないと、暗がりに向けて上るのを再開する。

 キョーヤの隣にはいられない。

「やだ」

 ――たったの二文字が、後ろから追いわたしの背を突いた。

「そんなことを聞くと思うの。忘れたのかい、ひとりで進むなと言ったはずだ」
「……覚えてる……」
「センチネルだとかガイドだとか関係ないとも言った。僕は君をどこにもやらない」

 ぎし、と金属が軋んだ。キョーヤがはしごに手をかけたのだとわかって、慌てて上まで上り切る。

 振り返って入口に蓋をしてしまおうとそこらを探る手を掴む、手。

「捕まえた」

 それは、冷え切った諦念を跡形もなく溶かすほど熱かった。

 わたしを真っ直ぐに射抜く視線も。

「……君は怖がりの泣き虫の甘えたがりのどうしようもない子だけど」
「そ、そ、そこまで言うことないでしょ……!」
「弱虫ではない。もしそうなら、こんなところにひとりで入ろうとしない」

 あっさりと追いつき、キョーヤはここまで抱えてきたらしい毛布でわたしを一気にくるんだ。ふかふかしたぬいぐるみのような安心感の上から抱きしめられ、やっと真相を掴むことができた。キョーヤはわたしが寒がるのを予期してこれを探しに行ってくれていたのだと。

 わたしがまた怖い夢を見ることなく、よく眠れるように。

「離してごめん」

 抱き寄せられた胸元から、ゆっくりとした心音がする。大好きな声が、降りてくる。

「……みどり、また僕と繋いで」

 シンプルな願い。

 キョーヤがいちばんに伝えてくれたのは、いちばんに求めてくれたのは、わたしだ。

 答えないはずがなかった。差し出された大きな手に、手のひらを重ねる。

「うん」

 そうっと握られる力が心地よく全身に伝う。

「繋いで。ずっとだよ……」

 その瞬間に、耳に飛び込んでくるものがある。囁き、寝かしつける子守唄のような穏やかな響きが。

 寄せては返すリズムに、聞き覚えがあった。

「……キョーヤ、わたしにも聞こえるよ。海の音がする……」
「……僕には、歌に聞こえる」

 ふと傍らへ向けられる視線をたどる。

 そこには要塞もかくやの角張った機材が詰め込むように並べられていた。太いもの、細いもの様々な配線が床を這ってあちこちに伸びている。

 微かに埃を被った黒い箱たちの中では一際目を引く、辛うじてわたしにも使い方がわかるものが透明なカバーの中でくるくると回転を続けていた。天窓から差す月明かりに照らされて、さながらスポットライトを浴びるかのよう。

 ピンクのスケルトンボディが可愛らしいカセットテープには、白いラベルの上に何かが記されている。暗闇に目が慣れてやっと読み取れる小さな文字は掠れていた。 

「ルーシー・モノストーン……」

 かちゃ、と、前触れなくカセットが止まる。 

 同時に、波の音も辺りへ広がって薄れていった。

「……大体、予想はついたよ」

 キョーヤはそうつぶやき、次にしたことはわたしに被せた毛布を整えることだった。

 きっと、わたしはその推測を教えてもらうことはできない。今はそれより大事なことがあるから。

「キョーヤ、あのね」

 怖がりの泣き虫の甘えたがりのどうしようもない、けれど大事な。

「今日も、いっしょに寝てほしいの。ふたりならもっと温かいよ」

 腕の中にいるわたしを、今度は見下ろして。

「うん。おいで」

 あの明かりのように静かな笑顔で額にキスをくれた。

 ひとりでに、カセットテープは巻き取られていく。