キョーヤが声を荒げたり、驚いて叫ぶのを見たことがない。そんな発見から今日の計画が生まれた。研究対象はどこ吹く風とばかりに座布団の上、湯呑みで緑茶を味わっている。午後の日差しの中で余裕を絵に描いたよう。
そして実験はすでに終了していて。
「終わりかい」
「終わりだよー……」
観察される側のキョーヤが無傷でわたしの方がズタボロにされたのにはちゃんと経緯がある。
突然耳元で囁いても、机のお皿に盛ったおやつをこっそり隠しても無反応どころか「その程度なの」とばかりに黙ってわたしの頭を撫でてあとはスルーされてしまう。思い切って背後から脇腹をくすぐってもキョーヤはノーダメージのうえにそのときは捕まって反撃を食らった。なぜかわたしが大声で笑い泣きさせられて――実験はここで切り上げ。出す相手のいない研究レポートには完全敗北の四文字だけが残る散々な結果。
「みどり。おいで」
相手が悪すぎた。肩で息をして畳にがっくりと膝を着くわたしを呼ぶ表情は楽しげを数分前に通り過ぎて呆れに近い。
「やっと諦めた。どうしてあんなに頑張ったの」
招く手に近寄ると、長い指が頬にかかる髪を払ってくれる。そうして改まった視界で、逆にわたしの様子をつぶさに読み取ろうと見下ろす目に出会った。いつも通りの静かでことばのない視線が降りてくる。
これを前にして悔しさのあまりごまかしを言っても意味がないことはわかりきっていて。何となく正座で姿勢を正して間近の黒い瞳を見つめ返した。まつ毛の影もわかるほどの距離。
「キョーヤの表情全部知りたいんだもん。わたしにならいいでしょ?」
泣き顔も怒った顔も、本当なら見る機会なんてない方がいいと納得できる。キョーヤの感情が起伏の激しいタイプではないことも。それでも、ちらと眺めるだけでもいいからひとり占めしたかった。キョーヤがわたしにとても甘くて優しいのを自覚した悪質な強欲さ。
どうからかわれるのかほんの少し構えながらの答えに返ってきたのは、予想に反して、そう、と小さな頷きだけ。ほんの微かにだけ細められる目と、大きな手のひらに隠されてしまう口元ではキョーヤの元々読み辛い気持ちが更に読めなくなる。
キョーヤはどう思ったんだろう?
「……欲望に忠実な子は好きだよ」
「言い方ー!」
「騒がしい」
どうもこうもない、わずかに顔を覗かせたのは完全に勝者の立場を独占した人間の誇らしげな笑顔だった。得意げなのははっきり言って嫌いじゃないしむしろ好き。それはそれとして、今日はどうしてもキョーヤが意図せずしまい込んでいるかもしれない表情を見たかった。一度は屈したメンタルがその一心で回復した気がする。
「みどりはとてもわがままだね。僕に関しては」
揶揄されても否定できない。この件については逆もまた綺麗にかつ同レベルで成立することは口をつぐんでおくとして、わたしの脳裏では今もうひとつの策が生まれた。一瞬だけ視線をそらせたらあとは当たって砕けろの精神だ。
「あっヒバードちゃんが変色してる!」
でたらめを言って唐突に窓辺を振り返ったわたしにキョーヤがつられる。がら空きの胸、ワイシャツのボタンめがけて一気に倒れ込み――抱きついた。大きな背中に手を回して、なるべくくっつくように。
少し首を傾けると日なたのような体温が頬に伝う。耳は微かな心音を拾った。規則的なリズムはいつも心地いい眠気とともに安心感を連れてきてくれる。これで、キョーヤの両腕がわたしを迎えてくれたら本当に幸せな構図の完成だ――とはいえ今は奇襲作戦の真っ最中。
さぞ、さぞ驚いたに違いない。キョーヤはわたしをたくさん抱きしめてくれるから、比べると反対の立場になる数は少なくなる。つまり慣れていない。不意打ちが成立するにはうってつけの条件が揃っていた。
「……びっくりした?」
軽く離れて見上げた先には……沈黙があった。少し唇を開いただけの、ほぼ無表情なそれが見下ろしてくる。
やっぱり、やっぱりキョーヤは雲雀恭弥だった。わたしが愚かだった。無理を言い放題で困らせてしまったのが申し訳なくて引き下がろうとして――不意に何かがわたしの後頭部を鷲掴みにした。
よく知った感触。
「何、なに?」
「黙って」
言い捨てて、キョーヤは仰向けに寝転んでしまった。
わたしを道連れにして。
「えええ?」
「黙ってって、言ったでしょ」
そうしたくてもできない。キョーヤのお腹の上に乗り上げてしまったまま頭を胸に押さえつけられて退けないのだから。暴れて逃げるにはあまりにもあんまりな状況でまともに動けなくなる。ただただ自分の心臓がばくばくと落ち着かないのを思い知らされるばかりで。
「何で、どうして」
「みどりを見習って正直に言うよ」
わたしがそうしたのと同じように、背中に手が添えられた。温かいと言うには過ぎた熱が背骨に触れて、どこか体の芯が溶かされてしまったように動けなくなる。
たっぷりひと呼吸分の時間。その後にはいつも通り、のふりをしたトーンでひとことつけ加えられた。
「僕の方、見ないで」
――レポートの内容を根本から練り直した方がいいかもしれない。主題はわたしが抱きついたあの瞬間のことについて。
キョーヤは、どう思ったんだろう?
(きみの表情企画/平静を装う)
