ドベネックの桶

 

「わたしがあなたの手を引いていけたら」

 力尽きる魔王の前でへたり込み、女は泣いていた。小娘と形容してもいい年若い彼女が、今の今まで相対していた男へ隙をさらして。

 国の外。考えもしなかったことだった。ミノリの中には当たり前のように存在していた選択肢は、彼女が思う「薄情」なのだろうか。

 そうではない、と断言できる。過去の温もりへ縋り、視野は狭く、すべては自らの未熟さが招いたことだった。だからこそミノリたちが降り立ったこのルクレチアはこうまで荒れ果てている。この手でそうした。この地に、血で汚れていない場所など存在しない。

 彼女が纏う赤とは正反対だ。愛した故郷を離れ、長く修練を積んだ証とは。

「君は赤魔導師だったな。ミノリ」

 周囲に散る男たちがわずかに身構える。たったひとりミノリだけは、倒れたままの私が伸ばす指へなんら警戒できずにいた――もとより、ここから状況を一変させる力など残ってはいない。そんなつもりも。

「君は未練を断ち切った。私にそれができていれば」

 その頬を濡らす涙を拭ってもたいして意味はなかった。彼女は泣き止んではいないのだから。憎しみで人間を歪ませる魔王山はすでにその力を失い、暗く朽ちた広間の中でミノリは悲しみだけを私に向けていた。

 もうその手を取ることはできない。

 だが受け取ることはできた。彼女の透明な視線と、彼らのまっすぐな意思は。

「あなたは」

 裂けかけた手袋に覆われるミノリの手が、自身の帽子を外す。さらりとこぼれる髪は柔らかく、かつて腕に抱いた姫を想わせた。その理由もわからぬまま愛おしく求めた誰かを。

「……あなたは、この国を愛していたから。オルステッド」

 憎しみや恐怖とともに紡がれたのを最後に久しく呼ばれることのなかった名前。私のもの。

 捨てたはずでいてその実、後生大事に持っていたから私は負けたのかもしれない。それでよかった。

 消えいくこの身を見つめている者たちがいた。

 差し伸べられる手があった。

 その事実だけで、オルステッドのまま祈りも罰も抱えていける。

「ミノリ」

 名を呼んで、そこから先に続けるべきことばは音を失う。彼女はことばを手繰り寄せようと目を微かに見開くだけ。

「どこかで出会えたら」

 そんな望みを最後に手渡せたならと、過ぎた欲がこぼれ落ちた。叶わぬとわかりきっている願いだとしても。

 

ランダム単語ガチャ No.9873「ドベネックの桶」