熱帯魚

 急に勢いよく寄せた波に攫われて浮き輪が岸へ流されていった。つま先立ちで辛うじて足がつくところにまた波が打つと海面は口元を塞いでしまう。


 こんな失敗はしたことがなかった。泳げるとはいってもそれは平静の場合の話。不規則に遮られる呼吸は静かに膨れ上がる混乱のせいで心音とともに乱れていく。


 雲ひとつない晴れ、浜辺に光が反射して眩しいほどだ。その中でも観光客が賑やかに走り回ったり砂の城を作るのがわかる。

 誰もこちらを見ていない。

 わたしといっしょにここに来たもうひとりも、見当たらなかった。

 空気を求めて真上を向くと首が絞められるような錯覚がする。もっといい手は必ずあるはずなのに何も思い浮かばないのは暗い予感のせいだった。

 頭の先まで呑み込むほどの波。

 ――不意に背中を支えた手に抱き上げられなければどうなっていたか。

 ***

「リズ! こっち、こっち見てくれ……」

 力強いのか弱々しいのかわからない声。いつの間にかきつく閉じていた目を開くと間近で覗き込む色があった。片腕ですんなりとわたしを包み込みながら、回収したらしい浮き輪をもう片方に抱えてアーヴァインは深く息をついた。

「あぁ、よかった。水飲んでない? 苦しくない? 脚はつってないよな」

 その通りなのに頷くことしかできなかった。無意識に広い肩へしがみついていた両手に力が入らない。こうしていてもらえなければすぐにでも沈んでしまう気がして。

「もう大丈夫だよ、戻ろう。掴まってて」

 ふわりとした笑顔はすでにいつもの調子。やっぱり先輩は先輩なんだ。片腕に浮き輪を通してもらいながら思うのはそんな当然のようで、そうではないこと。わたしのいないところでどんな任務を――経験をしたのだろう? わたしが知る限りガルバディアにいた生徒の誰よりも大人なのに、立ち振る舞いがすべて隠してしまう。

「……意外」
「何が?」
「先輩、泳げたの……」
「あのねぇ、僕だってガーデン生だよ。そのくらいできるさ、というより」

 ぱしゃ、と水を掻く音が柔らかく後ろに流れていく。長い腕は悠々と伸びるのにぐっと速く力強く進んでいくのが違和感を覚えさせた。きっと、わたしにこんな泳ぎ方ができないからだろう。アーヴァインとこんなにも体格が違うなんてわかりきっていたはずなのに。

「実家が海辺だったからね。よく家族と泳いでたんだよ」
「それじゃあ、こうやってきょうだいを引っ張ってあげてたり?」
「あー、僕は引っ張られる側だったかなぁ」

 予想に違わない答えに笑みがこぼれるのはきっとアーヴァインの狙い通り。このひとの声は緩く目を閉じたくなるほど優しい響きがする。ほぼ軍属が決定づけられる場所にいたのが信じられないくらい。

「君はちっちゃいから簡単に連れてかれちゃうんだ」
「……それなのに、どうして見つけられたんですか?」
「綺麗だったからね。目を離せなかったんだ」

 真っ直ぐ砂浜を目指す視線。それがわたしだけに注がれていたことには全く気づかなかった。久しぶりの休暇、楽しいことも綺麗なものもこの海のあちこちに見つけられるはずだから。

「リズがゆったり泳ぐのが熱帯魚みたいで」

 水着姿が見られるなんて最高だなぁ、なんて昨日喜んでいたひとの口からそのことばが紡がれることこそ意外だった。いつもみんなに見せている姿、その奥にあるものが今目の前に現れている気がして。

「先輩、ロマンチック」
「今気づいたの?」

 からりと笑って、アーヴァインはもう一度腕を伸ばす。波に乗るのも手伝いぐんぐん進むのが気持ちよくて、少し肩の力を抜いた。今度はふたりで泳ごうと誘えたらいいな、なんて考えながら。

 

ランダム単語ガチャ No.4662「熱帯魚」