★はじめに★
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#0
秋も深い夜、ふたりでこたつに入ってみかんを食べるのはもはや恒例行事と化し。こんな調子でテレビもラジオもつまらない年末年始まで過ごせたらもっといいのに、いやいやさすがにその時期はお互いの家族といなくちゃいけないだろうなとのんびり皮むきを続ける手に上から触れる手があった。
今やBGMにしかならない番宣を背景に、身を乗り出したキョーヤは暖房が誘う眠気で目をとろりとさせている。それは「そろそろ家まで送る」といういつもの構えではなくて。灯油販売の車が遠くで元気にアナウンスするのがよく聞こえるほどの無音が横たわる。
「みどり」
「あ、みかん? すぐむき終わるよ」
「君に触りたい」
――聞き直したところで返ってくるのは一言一句同じものとわかってはいた。そして脳がそれの理解を拒むのは全く別の問題。キョーヤの肩越しにテレビはいつの間にかナイアガラの滝の解説を始めている、NHKは慈悲など向けてくれない。
「……あんまりすごいのは、やだ」
もう触ってるじゃないかなんてとぼけることに時間稼ぎの意味なんてない。この目は言ったら聞かない目だ。とはいえ、強引ではあっても無理強いの果てに押し通すことは絶対にしない雲雀恭弥は次なる一手を打ってきた。
「どこならいいの」
これは譲歩しているつもりなのだろうか、そうなんだろうなと半ば諦めの境地に――至るはずがない。
「待ってよ待ってよ、触るって何、つまり? どうして?」
「毎回考えてたんだ。君は門限を守るいい子だから仕方ないけどね」
ちらと壁掛け時計に振る目はどことなく剣呑で、静かな口調と反比例して余計に際立った。とはいえ握られる手は温かくて優しくて、今向けられているのが怒りでは決してないことを教えてくれる。
「こうして普通に過ごすだけじゃ足りないときだってあるよ。君といる時間はいつもすぐ過ぎる」
「遠回しだね……」
「伝わったかい」
「寂しがってくれてるんでしょ」
こくりと頷いてキョーヤはわたしのことばを待った。その代替が「触りたい」なのは究極的とは言えても、否定はできなかった。わたしが、キョーヤに触られることを嫌いではないから……というのは少し違う。好きだった。それも、とてつもなく。
「……それなら」
#首
「首なら、いいかな」
「正気なの」
「自分から提案しておいて!?」
キョーヤはわたしの背に回り込みながら「君の発言についてだよ」とため息混じりに解説を続ける。キョーヤはこうしてわたしを後ろから抱きしめてくれることが多い。少しくすぐったいけどこの体勢は大好き。肩越しにリモコンでテレビの電源を落とした大きな手が回されて、そうっと抱き寄せるのは普段と変わりない。
それなのにどこかどきどきしてしまうのは、わざわざ「触りたい」と宣言されてしまったからだ。いつもと違うことをしたい、という一種の前置きだとわかってしまっている。どうして、どうして貴重な音源を消してしまったのかと筋違いな恨みを向けてしまいそうになった。大きくなって止められない鼓動が頭の中に響いて仕方ないから。
「人体の急所でしょ。わざわざそこを選ぶなんてね、それも僕の前で」
思いのほか近くに声が降ってくる。キョーヤはわたしと比べてとても背が高い。すっぽり腕の中に収まってしまった体をさらに両脚で挟み込まれてちょっとした拘禁状態。急所だなんて大げさな、そう強がってみせるのもどこか空々しくなるのは後悔のせい。気管、大動脈、授業で習ったばかりだった。本当に、そこには弱点が詰まっている。何で首を差し出してしまったんだろう。それを目の前にしてキョーヤはどんな顔をしているんだろう。
決まっていた。楽しい、それしかない。
「いつも髪を上げてるね。おかげで触れやすいからいいけど」
「触ってほしくてそうしてるわけじゃないもん……」
「そうじゃないと困るよ。僕じゃない誰かにこんなことされたいの」
「……絶対やだ」
だろうね、の短い相づちとともに喉元へ指先が触れた。さっきまで同じこたつに入っていたおかげで温かな指は長くて、骨を感じさせるほど筋張っていて……と視界に入っていないのに細かく様子を思い出せた。いつも頭を撫でてくれるこの優しい手が、今はいけない気分になることに使われている。
「熱いね」
「自分だと、よくわからない……」
「相当だよ。それにうっすらとだけど赤い。血の巡りがいいのかな」
多分とても恥ずかしいからだ、そしてそれは君のせいだと九割当たっているはずの推論をぶつけたって罰は当たらないと思う。――ここまで考えてそれでも動けない、動こうとしないわたしはやっぱりこの状況を嬉しく思っているはずで。そうでなければ思いきりもがいてやっぱり嫌だと逃げることだってできる。キョーヤはそれを許してくれるひとだ。
「本当に、綺麗な肌だ。柔らかくて気持ちいいよ」
「ん」
鎖骨の辺りに滑ってくる指がくすぐったくて喉が震えてしまう。それをキョーヤが気づかないはずもない。
「みどり」
緩やかに、低い音が耳に注がれる。
「うん……」
「痛いのも、怖くなるのも、僕に言うんだよ」
「……うん」
そのひとことだけで、非日常によくも悪くも気分がおかしくなっていたのが少しずつだけど確実に落ち着いていった。キョーヤはことあるごとにこう言ってくれる。わたしが怖がりなのをわかってくれている。大切だ、と全身で伝えてくれるのが嬉しくて、上がりきっていたらしい体温がまた上がりそうになる。
「君が痛いのは僕も嫌だ」
「キョーヤはいつでもわたしに優しいから大丈夫」
「どうかな」
――それは鋭く息を吸い込む音とほとんど同じ色がした。
「い……っ?」
痛みはない。息苦しくもなかった。ただ、硬くて鋭いものがうなじの辺りに当てられたことにびっくりしただけ。
硬くて鋭いもの。
牙以外の何ものでもなかった。
「だだだだだだめ……」
「心外だな。君を噛むわけがないよ」
わたしに尖った歯を突き立てるぎりぎりのところで止めているらしい張本人の口調は少し舌っ足らずで、それが余計に緊迫感を煽っていく。つまりわたしの想像、キョーヤが後ろで何をしているのかというのは的中していることになる。よくない。絵面とかではなく倫理的によくない。何よりわたしの心臓がもたない。
「君との約束だ、守るに決まってる。それとは全然違う話だよ……気になるんだ。みどりはいつもいい香りがするよね」
「ん、ん……そんなことない……」
「あるよ。香水とは違う気がする」
濡れた熱が首筋を数度舐めていく。文字通り、本当に文字通りに捕食されているんだ。それに思い至ったとたん背筋に伝ったのは嫌な予感……ではなかった。キョーヤは約束を守る。その前提で言えばこれは怖いことではなくて、よくないけどその先を知りたくなってしまう危ないことだ。はまってしまえば戻れなくなりそうな、毒みたいな感覚。
それはすでにわたしの全身に回っていた。
「それが何なのか、こうすればわかる気がしたんだよ」
「キョーヤ、キョーヤ……」
「どうして弱ってるの」
笑みの混じるそれは疑問形をしている意味がまるでない。わかりきっているくせに、なんて複雑なことばを返せないほど動転して、でも止めてほしくなくて。わたしがそんな袋小路に陥っているのをわかりきっているから。
「君はもっと頑張れる子でしょ」
それはこの時間がまだまだ続くことを暗に示していた。ここに鏡がなくてよかった、と心底思う。きっとキョーヤはとても意地悪に笑っているし、わたしはキョーヤ以外の誰にも見せられないほど酷い顔をしているに違いない。
#お腹
「お腹かな……」
「ふぅん。そういえばトレーニング、がんばってたね」
サイズダウンを目指してこっそり腹筋を続けていたのはバレていたらしい。とはいえブラウスの上からなら、よほどおかしな触られ方をしなければきっと大丈夫。
「脱いで、もしくはブラウス上げて」
「ですよね! やだやだ」
伸びてきた手から逃げようと仰け反った――ところに足首を掴まれて引き寄せられてしまう。あっけなくこたつのそばで仰向けに転がるわたしに覆い被さりは完全にしなくともキョーヤは楽しそうで、ブラウスの裾がめくれて露わになったインナーに潜り込ませるように指を這わせた。腰骨の上の素肌に触れる、わたしとは違う体温が予想外に違和感と警戒心を掻き立てて。
「あーっ、待って待って待って……せめてキャミの上から」
「……」
「キョーヤ、ね?」
「やだ」
「ご無体なー!」
数秒の慈悲はあっけなく撤回の方向に持っていかれてしまう。おへその下を手のひらいっぱいに撫でられて、皮膚の薄い部分を伝う刺激で勝手に脚が、腰が跳ねるのを見過ごされるはずもなく。
どこかが、変。
「……みどり、痛いの」
「い、たく、ない……っ、というか、くすぐったいというか」
「体、びくびくしてる」
「わかんない、触られてるだけなのに……?」
明らかにおかしい。気を抜けばひっくり返った悲鳴を上げそうな唇を両手で塞ぐのを、キョーヤは許してくれなかった。そうっと引き剥がされて、大きな手がひと纏めにわたしの両手首を頭上で固定するのに数秒とかからない。でたらめにもがいてみても噛み合ったパズルのように外れる気配なんて訪れない。
恥ずかしくて、熱くて、頭がくらくらしてくる。何でお腹なら触っていいなんてOKしちゃったんだろう? ……いや、多分どう答えたとしてもこうなっていた気もする。わたしに対してほんの少しでも強引に出るとき、キョーヤは大抵とてもとても我慢しているから。
――キョーヤは、ずっとこうしてみたかったのかもしれない。それでいてわたしがパニックを起こすのも見通して黙ってくれていたりして。
「……聞かせてよ」
「え、え?」
「みどりの声。慌てるのが可愛い」
「えぇぇぇ……っ?」
胸の下の辺りまでブラウスのボタンが開かれる。下に一枚着ていて本当によかった――なんてすぐに言っていられなくなる。黒いキャミソールの下で、キョーヤの手がはっきりと蠢いているのがしっかりわかってしまって、見ちゃいけないものを見せられている気分。
「本当に、よくがんばってる。うっすらとだけど筋肉をたどれるよ」
「ま、ま、まだキョーヤみたいな腹筋になれてない……」
「それは高望みって言うんだ」
お腹のほんの微かな凹凸から、その上、肋骨の下部までを指先がなぞり上げる。自分で同じことをしても何とも思わないのに、これがキョーヤの指だと感じるだけでぞくぞくとした痺れが走った。乱暴になんてされていないのに、どこか人間として踏み入ってはいけない領域に猛スピードで突っ込んでいくような焦りとともに。意味のない、ことばにもなれない声ばかりがこぼれた喉をキョーヤは笑って見下ろす。どこかゆったりと目を細めて。
「……可愛い」
それが本心だとわかるからこそ見られて聞かれて触られて恥ずかしい。いつも優しく髪を撫でてくれる手が今は確かな熱を持っている。なぞられたところが、見つめられたところが熱い。思考がぐるぐるして、開きっぱなしの唇がはしたなくてもどうしようもなくて。
「どうしよう、キョーヤ、どうしよう」
「どうもしなくていい。怖くないでしょ」
「だって、だって……ひぇっ?」
指先が胸骨にかかるのを感じて、それだけで心臓に直接触れられるような衝撃に押し潰されそうになる。キョーヤもわかってくれたようで、手がこれ以上に上ってくることはない。その代わりに何もかもを読み取ろうとする視線が、そんな意図はないだろうに体の奥の奥まで覗き込もうとするみたいでどきときする。
――何となく、それがもの足りないだなんて思うのはきっと気のせいだ。こんなに大変で意味がわからなくていつの間にか「逃げちゃおう」なんて気も吹き飛んでいくこと、とんでもない行為に違いなくて。こんなにすごいこと今まで知らなかった。
不規則な呼吸が逆に脈を加速させる悪循環を、わたしの頬をなぞるキョーヤの指がだんだんなだめていく。
「息が乱れてる。鼓動も早い。苦しいかい」
「ううん、苦しくない……でもわたし、わたしのお腹、変になっちゃったの……?」
「……なってないよ」
寝転がったまま動けないわたしの背に手を回して、キョーヤはゆっくり抱き起こしてくれた。気づけばマラソンでも走り切ったようにふらふらの意識でも、片腕で危なげなく支えられてとてもほっとする。こうして聞く心音を追っていけば、少しずつ元通りになれるはず。悪かった、といいたげに頭を撫でられると余計にそう思う。
「……熱いね」
「……もっともっと撫でてくれたら、よくなる……」
「甘えたがり」
憎まれ口を叩きつつも、キョーヤがわたしを放り出すことはなかった。そんなこと絶対にないとはわかっていたけどやっぱり嬉しくて、ほんの少し深くその胸にもたれかかった。
過ぎ去った嵐の混乱が淡く目に刻まれて二度と忘れられないような予感の中で。
#脚
「脚……」
「そう」
こたつから抜け出しつつ答えた。まあまあ安全な選択肢だと思う。そこそこの寒さの中だってストッキングひとつあれば平気なのだから。人間の脚の皮膚は強い。
「ならこれは邪魔だね」
「あーっ」
そんなことなかった。
もこもこルームソックスのつま先を器用に両脚分摘んで引っこ抜く早業を目の当たりにしては数秒前の確信は粉微塵になってしまう。相手は並盛最強、侮ってはいけなかった。いきなり素足にされたところをキョーヤはまじまじと眺め始めて――その視線がどこをどうたどっているのか何となくわかるのがくすぐったい。肌が直接感じ取っているような。
人間の皮膚、強くない。これはまずい。
「白いね」
「そう、かな……普段ソックスしてるとこんなものだと思う」
「どこまで白いのかな」
「どこまで?」
嫌な予感が爪先を突き刺す。
「スカート上げて」
「だめですだめです、終了! 解散!」
「何勝手に解散してるの」
キョーヤの指が膝丈の裾を引っかける前にスカートを両手で押さえた。危なかった。キョーヤはやりかねない。すねの辺りまでならともかく膝上はよくない気がする。世界的な道徳とかが許さない。何よりわたしが恥ずかしくて耐えられない。そうしてぐるぐる悩むわたしをキョーヤは涼しげに見つめるばかり。
「みどりは触られるのが嫌なの、それとも見られるのが?」
「全部……」
「それなら、切り分けよう。君は何が受け入れられないの」
素肌の両脚を投げ出したまま逃げ腰のわたしに迫りこそすれ、キョーヤは呆れたり怒ったり無理矢理捕まえたりしない。そんなことはありえないと断言できるからこそ、わたしも正直に話そうという気になってしまう。キョーヤの手がどれほど柔らかく、優しく触れてくれるのを知っているから。
「痛いのと怖いのと恥ずかしいのはやだ」
「知ってる。けど、三つめは僕がゆっくり慣らしてあげるよ」
「ひ」
突然喉から勝手に飛び出た声を両手で押し留めた。右足の甲の一点にそうっと降りた、自分のものではない体温。キョーヤの指先が、とん、とほんの微かに押し当てられていたせいだ。そこからゆったりと足全体を握り込まれて、容易く包まれてしまう。足の裏を爪が掠めるようにくすぐって、それなのに感じるのは熱さばかり。そこを起点にキョーヤの熱がわたしに流し込まれているようで、とっさに振りほどくこともできない――それはきっと心の底ではわたしがそんなことを望んでいないから。
「どんな感じ」
「わかんない、わかんないよ……」
「ゆっくり考えたらわかるでしょ」
諭すような、小さな子に言い聞かせる口調はからかわれているのだとすぐにわかって、それでも反論できない。混乱しているのは本当のことで、いったんキョーヤの圧から逃げてぎゅっと目を閉じた。その間にも指先はくるぶしやかかとをさらりと撫でながら緩やかに足首を上り始めて。
「あはは、こそばゆいよ」
「余裕だね」
「余裕じゃ、ふふ、ないけど……っ」
お腹の奥がじわりと疼くような感覚が何なのかわからなくて、閉じた視界で追いかけても何も見えない。キョーヤがわたしをじっと見つめているのがわかりきっているから目を開けるのもためらわれて。ふくらはぎに差しかかる温度が膝裏を這い上がるのが恥ずかしくて仕方ないのにもどかしくもある。
もどかしい。つまりもっと、こういうことをしてほしいということ。触られるのが好きとはいえいくらなんでもこれはちょっと……と勝手に引いたラインを守ろうとするわたしをキョーヤは言外に許さない。
現にその指はどこかで留まることをしなかった。
「手、どけられないの」
「やだ、だって太ももだもん……」
無理ですだめですと首を横に振って――ここで限界だった。そうしろなんて言われていないのに目を開けてしまう。間近でわたしを射抜く黒々と綺麗な瞳には魔力でも宿っているみたい。無言の抵抗はあっさりと下されて。
「……ん……」
スカートの裾を固くガードしていたはずの両手で、自分から、めくり上げた。あんなに眺められるのが恥ずかしかったはずの内もも辺りが晒されて、十分温かいはずの空気に触れるだけでぞくぞくする。見ないでほしいのに、見られるためにこんなことをしている。それもわたしの意思で。
キョーヤの熱に当てられて、頭が変になったのかもしれない。それでよかった。わたしが正気でこんなことをできるはずがない――なんて、この期に及んでまだ言い逃れのルートを探そうとすること自体がまだ理性のある証明のようでもっと変な気分。
「……よくできたね」
ほんの数センチの譲歩に笑みをこぼすキョーヤは何を思ったのか、空いた片手でわたしの髪をゆっくりかき回した。
「……っ」
「声、我慢しなくていいのに」
つぅ、と、大きな手のひらが膝裏から内ももをなぞる。そこだけ体の造りが違うのではないかと思うほど感覚ががらりと変わった。皮膚なんてないかのように、直接わたしに触っているのだと錯覚するほど鋭敏に体温が、動きが背筋に伝った。
「……その顔、可愛いよ。みどり」
「わたし、どんな顔してるの……」
「僕以外の誰にも見せられないとろけた顔」
どこまでも穏やかなのにわたしを逃してくれない、そんなことばだった。
――意識をシャットダウンできるスイッチがあればいいのに。無心になりたくてもキョーヤの何もかもがその集中を乱した。何よりわたしは気づいてしまっている。まだ左脚には一度もこうされていないことに。
#数十分後
「疲れたの」
「わかんない……」
何が何だか、そんな気分。
とてもいけないことで、恥ずかしくて仕方なくて、けれど気持ちよくて、はまったら戻れなくなりそうで――後に残ったのは嵐に翻弄されたように脱力したわたしだけ。キョーヤはいかにも楽しそうに座椅子に収まりながらこちらを眺めた。こたつに突っ伏してぐったりするわたしは避けられるとわかっている抗議の一撃を振りかぶることもできない。あんまりだ。
「結局、どこに触られても君はそうなってたんだよ」
「どうして?」
「みどりは僕にあんなことされるのが好きらしいから」
あんなこと、なんてぼかされたらよけいにやらしいことに聞こえて一気に頬が熱くなった。先ほどよりは冷静になった頭で思い返すと。
「あーっ」
「うるさい」
「だって、だってキョーヤがわたしに」
「みどりに? 僕はみどりに何をしたの」
「やだやだ言わせないで」
いや、思い返せない。追憶に支障を来すほどの恥ずかしさで思考回路がエラーを吐いている。とはいえ脳ではなくて体が覚えていた。今も指先で触れられたところが痕になったように熱が消えないのだから。痛むのではなく、痺れるとか疼くとかそういった例えのほうがしっくりくる。痛みよりも深刻な症状に苛まれて立って歩くのも億劫だった。というよりはできない。微かな刺激すら、今は苦しさに変換されてしまいそうで。
「体、おかしくなった」
「なってない。気のせいだよ」
「なったったらなったの。キョーヤのせいだー……」
恨みごとをどこ吹く風と聞き流すのを不満も込めて睨むことしかできない。――けれど金輪際キョーヤに触れられたくないかと言われたら答えはノーと決まっている。優先順位が揺らがない自分も憎い。四面楚歌同然だった。
キョーヤはそうして動けないままのわたしを見つめ続け、そしてそれで終わりではなかった。首を傾げて覗き込むようにして。
「今日は泊まっていったらいい。そうしたらこれから時間の限り君の気が済むようにできるよ」
「気の済む……?」
お泊まり自体は初めてではない。わからないのはそのひとことの方だった。わたしが今やりたいことといえばキョーヤにあれこれと仕返しすること。それを本人から提示されて興味がわかないはずもなく。そして同時に相手が相手だということもわかりきっていて。
「……何だか警戒しなきゃいけない案件のような……?」
「本当にいいのかい。僕に思い知らせるチャンスなのに」
わたしでもわかった。これは、徹底的に煽られている。
微笑む唇も、挑発する目も、余裕ありげに組まれる脚も、他意なんてありませんとばかり開かれる両腕も――キョーヤは全身でわたしを誘っていた。
乗ったらどうなるかわからない。乗らないと後悔する。
わたしが選んだのは後者だった。何としても逆襲を!
といっても逆襲初心者のわたしには一瞬のためらいがあった。キョーヤのどこをどうしよう?
「え、えっと……」
#逆襲
「……本当にそんなものを始められるとでも思ったのかい」
「えっ」
「君の選択肢は打ち止めだよ」
「メタ発言はよくない、第四の壁の突破はよくない……」
なぜか逆襲される側が強気に出ている。というよりは未だ攻勢なのはキョーヤの方。
「そんな状態で僕に何をわからせるっていうの。甘いよ」
「……そうでした……」
そうでなくてもキョーヤがその気になればわたしを完封するどころか追撃が来るかもしれない。次はどうなるか……考えるのは止めた。考えたらいけない領域に突入しそう。あいまいで形のない想像はきっとわたしには耐えられないほど、恥ずかしいなんてことばでは表せないほどとんでもないことのような気がして。
「触れるだけでそうなるなんてね。先が思いやられる」
こちらに歩み寄る脚だけが視界に入る。見上げる隙もなくキョーヤはわたしのそばに座り込むと頬にかかる髪を払った。みどり、そう呼ぶ声がぐっと近くなる。
熱い頬をなぞられると気持ちよくて、嬉しくて、大人しく受け入れてしまう。同じようにどこか熱っぽいキョーヤの視線はわたしから外されることはない。一挙手一投足を見逃さないようにしているようでどきどきする。
「みどりのその目、いいね。悔しそうだったのがだんだん溶けてる」
わたしの唇に差しかかる指がそれ以上は進まずに引っ込んでいく。思わず追いかけようとして、そこで閃いた。
キョーヤは何かを守っている。
「ね、キョーヤ。わたしに、その、触りたいのは……ほんとに、寂しいからなの? 何か別の理由があったりして?」
「……当たり」
観念したようにため息混じり。キョーヤは先ほどまで戸惑っていた指でわたしの髪を撫でてくれる。
「でもまだ、教えないよ。きっとまだ君にはわからないからね……それに、僕にもよくわからない」
「そうなの……?」
「今日以上に、もっと君に触れていたいと思うときがある。君の全部を僕のものにしたいって、行き過ぎた考えだよ」
伸びてくる腕に包まれるといつもほっとする。思考は読めなくても心音はわかるからだ。微かでゆっくりとしたリズムを聞くととろりと眠たくなるような心地よさがあった。いつもより少しだけ速くて、大きな音。
「自分のことなのにその衝動が何なのかわからない。でもいきなりそうしたら君はきっと驚くだろうってことは察しがつくから」
ことばを切るキョーヤの表情はわたしを胸に抱き寄せたおかげでわからない。
「今のうちによく慣れさせておかないと。そう考えたんだよ」
――それでも、耳を掠める温度だけは確かに残った。
