七人のセンチネル

 通学路を歩く横を通り過ぎていったのは、たまに新聞の隅に広告を出している老舗の建築会社の車だった。角張ったロゴをつけた白いバンは目の前でゆったりと左折し、学校の敷地に入っていく。

 もしかすると、キョーヤが言っていた改修の業者かもしれない。サッカー部のかけ声を聞き流しながら、何となくその後ろ姿を追った。コンクリートで舗装された道なりに、校舎の横、体育館裏へ徐行は続き。

 あのフェンスの目の前で停車する。

 ――あまりの光景に身動きの取れないわたしに気づくことのないまま、作業着姿のふたり組は鹿鳴館への抜け穴を何のためらいもなくくぐっていった。

「この先にあるんですねー」

 背の高い方が驚きの声を上げ。

 まだ太陽が上る余地のある、短い影が館へ向かって去っていく。

 ***

「キョーヤ工事のひとが入ってく!」
「知ってる。窓から見てた」
「何であのひとたちにはわかるんだろ!」
「僕が呼んだ。ここ一帯の受信状況を確かめたくてね」

 大慌てで応接室に飛び込んだわたしとは対照的に、キョーヤはいつも通り冷静だった。窓辺からこちらへやってくるその手には、二冊のノートが収まっている。

「そうだったんだ。あの茂みじゃ外からは建物なんてわからないもんね」
「あぁ、その件。もうほとんど没交渉になっていたようだけど」

 そう前置きして語られるのは、鹿鳴館のこと。そんな予感がしたのはキョーヤの目線を追ったからだ。ふたりで手を繋いで初めてわたしに聞こえる、あの音をなぞっている気がして。

 黒々とした瞳は、今はどこでもない中空を見つめている。

「並盛町は、彼が元いた町と姉妹都市交流がある。君も聞いたことくらいはあるかもね」

 彼、と指差したのは後の方に見つけたノート、広げられたそこに書かれている大江七緒の名前だった。とはいえ、華々しい海辺の観光地として聞くばかりのあちらの町の名と並盛が結びつかない。こんな反応が答えになり、キョーヤは軽く頷いてことばを継いだ。

「名簿で見かけたときは思い出せなかった。十年単位で町同士の交流イベントは開催されなかったから」
「うん……覚えがないや。前はどんなことをしてたの?」
「交換留学だそうだ。互いの町から数人の学生を募って相手側の学校へ入れていた……と、これを読む限りでは推測できた。図書館か、学校の記録を遡れば裏づけもできる」

 その手がノートを机に置き、ぱらぱらとめくっていく。今の話を聞いてからでは誌面の見方がまるで違った。ゆったりと移り変わる頁のあちこちに、歓迎会、レクリエーション、発表会、見送る会――確かに、新しく並盛へ来た人間がいたことを連想させることばが並んでいる。

「鹿鳴館は留学生たちの宿舎として使われていたようだね。そして当時の並中の生徒も立ち入っていた」

 その生徒がそれぞれ、大江七緒と平野臣。

 ふたりもルーシー・モノストーンの歌声を聞いていた。どちらも放送当番だから耳にする機会は嫌でも多かったはずだ。
 そして、来てからたった数ヶ月で転校していったということしかわかっていなかった、大江七緒。海の音がする町に帰っていった生徒。

 ――ちょうどよく効いた冷房のせいか、外からまとわりついていた熱気はいつしか引いていた。冷風はふたりに等しく吹きつける。きっとこの部屋のどこに立っていても。

 それは、音も同じ。

「この前話したこと、もしかしたら逆なのかも」
「どういう意味」
「センチネルの数が並盛にだけ多すぎるっていう、あのこと。聞こえがいいからラジオの音が聞こえたんじゃなくて、ルーシーの歌を聞くとセンチネルになって聴覚が鋭くなる……って、考えすぎかな」
「……的外れではないね。現に僕たちが見つけるまでラジオ放送は続いていた。みどりのように細部まで聞き取れなくても確実に歌は学校周辺の人間に届いて、その中で僕のようにセンチネルの能力が表れたという順なら」
「何だか、ファンタジーだね……」
「けれど現実だよ、恐らくは」

 ふわふわと、床を踏みしめる感覚がまるでない。それは起こったことを呑み込むには頭が追いつかないからだ。いわゆるキャパオーバーと言われる現象。歌がひとの気持ちではなく構造そのものを作り替えてしまうなんて、そんな力があるなんて。

 力が抜けて、すぐそばのソファーに腰を下ろした。隣にキョーヤが黙って座り込むと、涼しい室内でここだけが温かくなる。空調の低い稼働音だけが満ちて、今はここどころか世界中のどこへもルーシーの歌声は届かない。キョーヤがカセットテープを回収したから。

 ここに来て、都市交流が途絶えていった理由がぼんやりと思い浮かぶ。当時情報も施策も少なかったセンチネルが原因不明の深刻な症状として認識されてしまったら。それが何度も発生したら。イベントは控える方向になっていくだろう。その舞台となった鹿鳴館にも影響して。

「一度そうなってしまえば戻れないことも」

 ぽつりとつぶやかれた事実。仮定の原因を取り除いたとはいえ、キョーヤがセンチネルだということは覆らなかった。擦り傷がいつか消えて綺麗になるようにはいかないらしい。よく聞こえて、聞こえなくていい音まで聞こえて、あふれて、疲れてしまうことがこれから何度も起こる。

 対して、わたしは。わたしはいつからガイドだったんだろう。センチネルのように決定的なできごとが訪れない分、自覚すらできない。このことがなければ。

 そして、ガイドのわたしをいちばんに見つけたのがキョーヤでよかった。ボンディングよりも、センチネルの発現よりもずっとずっと前からわたしを必要としてくれた、大切だと言ってくれたキョーヤで。

「ね」

 ふと、声をかけていた。

 わたしが知らない歌を口ずさむことは少なくなる気がした。確かめる手段のないあの旋律はいつの間にか風化して消えていくはずだから。

 キョーヤは違う。音もなくわたしたちに降りてきた痛みのない痕と同じに、変わったまま。

「痛む?」
「……どこも、何ともない。どうして」

 いつだってこうしてすぐそばで見つめたい理由を、静かな瞳が問う。

 わたしには脳が焼き切れるほどの痛みがわからない。

 わかるのは感情だけ。

「キョーヤのことを守りたいな、って」
「傲慢だね」

 皮肉っぽく笑う喉が、次に紡いだのは真逆の響き。

「たとえ君が相手でも僕は何だって見せるわけじゃない。なぜだかわかるかい」
「わたしにはかっこいいとこだけ見ててほしいから?」
「言い方が気に食わない」
「えぇ……」

 少しだけ拗ねたようにそっぽを向きつつ、けれどその腕はわたしの背を抱いた。言外に肯定している気もする――キョーヤにとってはまるっきり違うことらしい。

「それでいい。みどりは」

 頬を押し当てるようにしたキョーヤの胸からは、規則正しい鼓動を感じた。どんなときでもゆったりとしているかのように、安心感のある。

 この音を失いたくない。

「ここで、僕のことでいっぱいになって」

 そう思った瞬間に足元をすり抜ける、ふわりとした、浮遊感。

 ――錯覚ではないと気づいたのは、キョーヤの背景が文字通りひっくり返ったからだった。抱きしめていたわたしごと。
 仰向けにソファーへ横たわる体の上にわたしが覆いかぶさるように。

「わ、わ、びっくりした……」
「上手だね」

 とっさにしがみついた手を横目に、キョーヤは上機嫌だ。一応は落ち着いて、そうして改めて眺めた目の前にはたったひとりだけがいる。嬉しそうに目を細めるのが、唇がほころぶのが、こんなに近く。

「心音がここまで聞こえる」

 おかしそうに笑う声が、低く溶けた。

「どうして」
「だって、ものすごくどきどきしちゃうよ。キョーヤ、いつもこんなことしてたなんて……」
「そんな風に思うのかい。僕は君を押し倒すのをとても気に入ってるけど」

 微かな声すら逃さず拾えてしまう、ゼロに等しい距離。それをさらに縮めるのは、わたしの髪を撫でて引き寄せる大きな手。

「たまには見上げるのも悪くないね……みどり」

 頬に触れた温もりが紡ぐ名前が、淡い星のきらめきをまとった。

「君のしたいようにしてごらん」
「わたしの……?」
「必要だよ。こういうことに慣れるには」

 綺麗な人差し指に喉をくすぐられて、あやされる子猫の気分。わたしの下にいるくせに態度はいつもどおりだ。やり返したくて、唇を掠めていこうとするところにほんの軽く歯を立てても。

「ずいぶん生意気なことができるようになった……もっと、しないの」
「だって、ガイディングの後いつも気を失っちゃうんだもん」

 照れくさくて、というほかになかなか深く踏み出せない理由はこの一点に尽きた。抱き寄せてくれる腕と、優しく降りるキスが、いつの間にか霞む意識の彼方に消えていっている。目を覚ますころには数時間後だ。もったいない……というには語弊がある、密かな悔しさは胸の内にほんの少し積もっている。

「キョーヤとたくさん……えっと、くっついていられて嬉しいのに。どきどきしすぎなのかな……」
「あれは気絶とは違う。眠りだから心配はいらないよ」

 思ってもみないことだった。わたしとしては眠ってなんていられないほど心臓がうるさい状況だったから。

 ――けれど、次いで訪れたことばが全てを解決した。

「そんなに安心してたの」
「……うん」

 頷いて、鼻先同士をちょんと触れさせる。

 視線が、微笑が、気持ちが向けられているから。

「キョーヤといっしょだから」

 今こうして、何よりも安らぐ場所にいる。

 わたしも、キョーヤにとってそんな存在でいたい。

 そう思いながら、まとめていた髪を優しく解いていく指を感じていた。