ホームの真ん中に掲示された時刻表を眺めるわたしの後ろを、軽い足音が通り過ぎていく。視線を向ければ、可愛いピンクのリュックを背負った小さな女の子が普通電車に乗り込むところだった。
耳を覆うのは子ども用の小ぶりな、それでいて本格的な角張りをしているヘッドホン。
ふと肩越しにこちらを振り返ったその子の唇は、声もなく音を口ずさんでいた。
ヘッドホンがなければ、わたしを誘うことばを紡いだように見えたのかもしれない。なぜならあの表情は大人びた笑みだったから。
これは夏の白い日差しが目に眩しい昼時に、駅のホームで電車を待っていた数分間に起きた出来事。
***
ルーシー・モノストーン。
七十年代に活動していた、とされるアメリカのシンガー。
出回っているのは数少ないレコードと、その録音をした海賊版のテープだけ。
歌声はしゃがれた老人のようだとも、少女の透明なものだったとも形容された。
男性である。
「これだけ?」
「これだけ」
図書室備えつけのパソコンで調べられたのは、事実かどうかすら定かではないことばかり。彼の活躍した時代が時代だからかもしれない。期待外れだとため息をついたキョーヤは、その興味を横に避けていた日誌に移す。涼しいエアコンの風で、開いた頁がそよいだ。
見覚えのある型。これまで手がかりにしてきたノートと全く同じだった。あの屋根裏に置き去りにされていた機材の上で、半端に日に当たり続けたせいで三分の一ほど色あせている。
朝早いうちにあらかた目を通してしまったらしいキョーヤが示す頁には、丁寧に定規を使ったらしい当番表が書かれていた。
「宿舎の放送当番」
そして、その真ん中あたりにはふたり分の名前が記されている。
「水曜日、大江七緒・平野臣」
よく知った名前が。
カラーペンで周囲を賑やかに飾ることもない文字は、丸みのある筆跡のおかげで辛うじて温かみを持っていた。きっとこのノートは生徒だけで回していたのだろう。ずっと昔にも部活や委員会のような活動があったことを不思議に思いながら眺めていると、キョーヤは「放送」のあたりを指でなぞり始める。
「あの機材は主にミニFM局用のものらしい。型番が検索に引っかかった」
「FMって、ラジオの?」
「うん。校舎みたいに映像を流す必要がないなら、ラジオ設備のほうが設置が簡単だからね。とくにこの頃は」
放送をラジオでやることもあるなんて知らなかった。それなら、個室それぞれの壁にスピーカーが見当たらなかったのも納得がいく。
「じゃあ鹿鳴館全体に、えっと……ルーシーの曲を流してたんだ。何だかダンスホールみたい」
あの屋根裏で、キョーヤと手を繋いで初めてはっきりと認識できた音。
音質のよくないざらついた旋律はそれでも不快とは真逆の、砂浜へ寄せては返す波そのものだった。その上に、水と砂の輪郭で砕ける泡を思わせる儚い歌声が重なって溶ける、ループ。
わたしたちが見つけるまでの間、カセットテープはあの場所へ置き去られたまま再生を繰り返していた。よく聞こえる耳でなければ届かないほど、微かな歌を。
「そう間違ってはいないかもね。あれは宿舎というより迎賓館に近い内装だから」
それより、と改め、キョーヤはパソコンの電源を落とす。真っ暗になっていく液晶に白いワイシャツがよく映えた。
「君はあの音を昨日初めて聞いたんでしょ」
「そうだよ。あんなにそばに行ってやっと、海の音だってわかったの。本当は歌だったなんて」
「けど、君は最近全く同じものをよく歌ってた。学校でも、脱衣室でも。昨晩も」
――一瞬、返すことばの全てを失った。隣の席から画面を覗き込んでいた視線を上げると、静かに受け止める瞳がある。
「聞こえてたの……?」
「何のこと」
「えっと、鼻歌というか……わたしひとりのときにしか歌わなかったはずなのに」
「他の人間には聞こえないだろうね。僕には聞こえるってだけのことだよ、みどりの声ならとくに」
「えぇ……」
自信ありげな笑顔を向けられても恥ずかしいものは恥ずかしい。自覚しないまま熱唱とかしていたらどうしよう。
もちろん、本題はそこではなく。
「わたし、ルーシー・モノストーンって名前も、歌も知らなかったのに……知らない歌は歌えないよ」
「……脳が認知しなくても受け取ること自体はしている場合がある」
「イルカの声みたい」
わたしが何も知らずに学校生活を送っている間、気づかないうちに海の音を何度も、何度も耳にしていたとしたら。この学校も新しくはない。校舎のどこかにラジオのひとつでも通っていたなら可能性はある。
その予想が正しければ、ことは一気にわたしたちだけの問題ではなくなる。
「わたしたち以外にも、本当は誰かに届いてるのかも」
夏休みの間も図書室は開放されているとはいえ、まだ生徒が登校するには早すぎる。ここにいて、これまでの会話に反応できるのはキョーヤひとりだけだ。
そして当人はなぜか、少しだけ不満そうに。
「僕以外にも聴覚が発達したセンチネルがいるって言いたいのかい」
「隠してるだけで、もしかしたら」
「冗談じゃない。割合的に並盛に偏りすぎてる」
そう言うものの、何だかそれが理由で怒っているのではないとわかる。
むっとしてへの字になる唇が可愛く思えるのは、そのせいだ。
「大丈夫」
ほんの軽く、唇でそこに触れた。体温がわからないほどの一瞬。
「わたしは、キョーヤだけだよ」
「知ってる」
少し離れて見つめる目は、わたしだけを映す。
「君の力は僕だけに向けるんだよ。キスも、歌も」
「鼻歌のことは忘れて……」
「やだ」
ほころぶ笑みに見とれている間に、キョーヤの両腕はわたしを包んでいた。きぃ、と鳴るパイプ椅子から少しだけ身を乗り出して、抱き寄せられるまま胸の中にもたれかかる。
――規則正しく響く心音が、ふっと眠気を誘うほど穏やかだった。
「キョーヤ、苦しくない?」
「何ともない。いつも通りだよ、いつものようにみどりがここにいるから」
「……うん」
離れるなんてありえない。断絶したと思い込んだ数時間があんなに辛かったのだから。もう終わったはずのことがちらと脳裏をよぎった気がして、慌ててキョーヤの背中に腕を回した。
力が入ってしまう肩を数度ぽんぽんと叩く、大きな手。
「……可愛い」
髪を撫でるのも。
「みどりは怖いことがあるとすぐこうだ。だからよくわかる」
お腹に触れるのも。
「……キョーヤ、キョーヤ?」
「何」
「なんで、お腹なの……」
「僕はセンチネルだから」
わかっていてわざと明後日の方向に話をそらす笑顔が思いっきり意地悪な含みをしている。
頬にキスをくれる唇は、さっき気づけなかったのが嘘のように熱かった。
「そしてみどりは僕にくっついてないとだめだから。ウィンウィンだね。何も問題ない」
「問題しかない!」
「へぇ。聞かせて」
「だって」
声が上ずるのをどうにかして飲み込んだ。思いつく限りの最悪のパターンを提示して説得しようとするのに、なぜだかその光景を具体的に思い描いてパニックになる自爆めいた思考がどうか見抜かれませんようにと祈りながら。
「だって誰かに見られちゃうよ。もうすぐ図書室に入っていい時間になるし……」
「……夏休みボケ」
「そんな時差ボケみたいな……え? どういうこと?」
「忘れたの。今日は土曜だよ」
唐突に席を立ち、キョーヤは呆然と今のことばを飲み込みにかかるわたしを振り返ることなく出入口へ向かう。
「だから生徒も、誰も来ない」
かしゃん、と、いやにはっきりと鍵をかけたのはわたしに対する温情なのだろうか。なんてことを考えてしまった。
その疑問の答えがどちらでも、これから起こることには何の影響もないけれど。
「みどり」
脚どころか体に力が入らないわたしの手を引いて導く先はすぐそこ、新聞コーナーに据えられたソファー。さっきよりずっと座り心地がいいはずなのに、それを感じるための頭はぽうっと痺れたように働きが鈍い。
「触れさせて」
どんな風に、なんて、わかっていた。
「……いっぱい、ぎゅーってして」
「うん」
だからこうして甘えても、キョーヤが笑って受け入れてくれることだってわかっている。
今日が土曜日でよかった、そんな結論に変わってしまうのは仕方のないことだ。
「ずうっと手を繋いでてね」
「うん」
お腹をするすると撫でていた指が、インナーの上を伝って背中へ回る。
もう片方の手は、わたしの左手へ。
くすぐったくて恥ずかしくても、それだけでとても温かくて嬉しい。
「可愛い、みどり」
耳元で、キョーヤの声でそうっと囁かれる自分の名前があることも。
「またたくさん声を聞かせて」
「それは、ちょっとだけ……恥ずかしくなっちゃうから」
「強情。それなら」
ほんの少し苦しくなるほど抱きしめられるのも、全部。
「たくさん、僕の名前を呼んで」
