目の前いっぱいに一気に広がったのは、明るい色をしていたはずのアンダーシャツ。元の色を思い出せないのは影が濃く差しているから。
それに、頭を押さえつけるように抱き寄せられているから。
掲げられた厚い腕が降りてくるより速く落ちてきたボールは、ぽんと芝生に着地した後は数度弾んで転がっていく。さっきこちらめがけて突っ込んできた勢いが嘘のよう。
ごめんなー、と声が飛んでくるグラウンドへ手を振って応えて、ジャックはようやくわたしを見下ろしたようだった。
「ユウ」
見上げても視界にはぎりぎり喉元が入るだけ。陰影がくっきりと目立ち、わたしのそれとは全然違うところ。
「平気か?」
潜めて少しかすれた、低い声が額のあたりへ降る。
「うん。ありがとう……」
ジャックがボールをあちらへ蹴り返したタイミングで、わたしを呼びながらグリムが校舎から走ってきた。少し離れた木陰できょろきょろとする彼に気づいて、ジャックは「ユウか?」と体を半歩ずらす。ふわふわのしっぽがぱたりと揺れたのがスイッチになったのか、グリムがこっちを向いた。
もともと丸い目が、びっくりしてさらにまんまるになったのは。
「おお! ジャックに隠れて全然見えなかったんだゾ!」
***
ジャックはわたしと話すとき、少し距離を取る。身長差がありすぎると目が合わなくてやりづらいのだとか。
「地元のチビをビビらせたことがある。でかいってな」
そしてきっと、苦々しい顔で明かされたこちらが本題。こうしてソファーについていると実感がわかないとはいえ、ゲストルームから見送るときは毎回その子と同じ視点になるから想像がつく。
けれど、考えることは真逆だ。あのとき、あっさりとわたしを包み込んだ大きな体に思うことは。
「お前も怖がるかと思ったんだよ」
「ビビらないよ。かっこいいもん」
ゆっくりと、ジャックはカップを傾けて。
「……でかいのが?」
「ううん、キリッとしてシュタッとしてるとこ」
「わからねえ。感覚派すぎる」
ふとこぼれてくる笑みは可愛い(と、前に一度言ったら全力で苦い顔をされた)。
「紅茶、うまかった。ありがとうな」
カップをソーサーに置いてほっと息をつく表情も。窓の外が寒そうに暗くなるのとは正反対。そんな彼が立ち上がると、やっぱり大樹のように伸びやかだ。ドアまでだってたったの数歩でたどり着けてしまう。
うらやましいのとは少し違った。違うのに、どうしてかわたしには手にできない景色を知りたくなる。どんなものがどんなふうに映るのか。
「どういたしまして、また来てね……あ、そうだ」
出入口まで見送ろうとして、目についたのは見慣れた階段。昇るたびに軋む音を思い出しながらジャックをそこまで連れて行った。訝しげに階段の前に立った彼を置いて、わたしだけ一段、二段(いつも通りぎしぎし鳴って壊れそう)……と踏み込んでいき。
「やっぱり」
確信を持って振り返った。
「うん、よく見える!」
キリッとした目やシュタッとした前髪が間近に、真正面になる。こうして同じくらいの高さからまっすぐ見つめるのは当然初めてで、つい少しだけ身を乗り出してしまった。
ユウ、と半ば宙ぶらりんな呼びかけが微かに聞こえた気がするのはなぜなのか考えながら。
「わたしもジャックくらいおっきくなれたらなぁ……」
音のない瞬きが、少しだけ開いては閉じるを繰り返す唇が手に取るようにわかる。ジャックほどの背の高さがあれば簡単に。
同じくらいの歳なのに何がどうしたらこんなに差が開いてしまうのか。一年生にも大きな男の子はたくさんいるけれど、ジャックは頭ひとつ抜けている。やっぱり毎日のトレーニングがいちばん効くのかもしれない。
「ね、ジャックは」
「ユウ」
絞り出すように重ねられた自分の名前に意識を弾かれて上げた視線の先には。
軽く見張る目。
「あ」
が、焦りを浮かべていた。思わず情けない声をこぼしたのは、今なにがどうなっているかをここに至ってようやく把握したせい。
月を思わせるきれいな瞳がある。後ろに倒れがちなふわふわの耳が、その気になれば触れられそうなところにいる。
なるはずがなかった。こんなにも頰が熱を持っていくのに。
「……ユウ」
大きな手がわたしの両肩をやんわりと包んで、前傾していた姿勢を階段と垂直に戻した。軋むようなぎこちなさで。
「落ちるぞ」
「あ、うん……」
「……ああいうのは」
らしくもない歯切れの悪さ。わたしの考えなしの行動が悪い。
完全に怒られるつもりで階段を降りようとしたわたしの心臓のあたりへ降りてきたのは。
「ひと声かけてくれ」
やめろと続けられるのだとばかり思っていたことば。
肩に触れたままの体温が熱い。
目をこすったらこの光景は本当の姿に戻ってしまうかもしれない。ジャックがわたしよりほんの少し小さく見えることや、その表情の意味、とか。
ランダム単語ガチャ No.3924「諸刃の剣」
